前回は「モーセのとりなし」について教えられました。祈りは大切ですが、ただ祈ればよいというものではなく、私たちは「何がみこころにかなった祈りか」を学ばなくてはいけません。主の祈りでも学んできました。クリスチャンは、自分のことばかりではなく、神の栄光を求め、「私たち」すなわち「他の人の必要」のためにも祈ります。この他の人のために祈ることを「とりなしの祈り」といいますが、このことについても誤解がないわけではありません。誤解を恐れずに言えば、とりなしの祈りは、他の人のために私も良いことをしたいという自己満足の祈りではないのです。それは犠牲の伴う祈りです。モーセはこう祈りました。「あなたの燃える怒りをおさめ、あなたの民への災いを思いなおして下さい(創世記32:12)。しかし、もしもかないませんなら、どうかあなたがお書きになったあなたの書物から私の名を消し去ってください(32:32)」。またパウロはこう祈りました。「もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。(ロマ9:3)
今日のタイトルは「感謝を持って捧げる祈り」ですが、感謝こそクリスチャンの祈りの特徴です。主の祈りの最初には、「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように」とありますが、賛美と感謝は、どちらも「主こそ常によい方である(He is always good!)」という信仰から生まれます。それに対して、異邦人の祈りは、「神様、私がこれだけ熱心に祈ったんだから、あなたもこれだけのことを私にしてくださいよ」という取り引きの祈りです。自分の願いばかりで、神様への感謝も賛美もないのです。
■ 詩篇103篇1-2節
103:1 わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。
103:2 わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
今日のタイトルは「感謝を持って捧げる祈り」ですが、感謝こそクリスチャンの祈りの特徴です。主の祈りの最初には、「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように」とありますが、賛美と感謝は、どちらも「主こそ常によい方である(He is always good!)」という信仰から生まれます。それに対して、異邦人の祈りは、「神様、私がこれだけ熱心に祈ったんだから、あなたもこれだけのことを私にしてくださいよ」という取り引きの祈りです。自分の願いばかりで、神様への感謝も賛美もないのです。
ハイデルベルグ信仰問答の第116問にはこうあります。「問:なぜキリスト者には祈りが必要なのですか?」「答:なぜなら祈りは、神様が私たちにお求めになる、感謝のもっとも重要な部分だからです。」私たちは、ただ一方的な恵みによって救われたのに、すぐに何かをして、行いで主を喜ばせようとします。でも神様は、まず私たちが御前に静まり(無力を認め)、感謝の祈りをささげる(神を神とする)ことを求め、喜ばれるのです!だから、ある人は「賛美と感謝をともなった祈りこそ、私たちの最高の礼拝である」とも言います。
あなたは、神様が、既にしてくださったことに、感謝の祈りをささげていますか?聖書にはこうあります。「わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。(詩篇103:1-2)」この点において、私たちはあまりにも、忘れっぽく、恩知らずです。人間関係においても「感謝」は大切です。何をしてあげても、感謝せず「あれしてくれない、これしてくれない。もっとこうしてほしい」と言われたらどうでしょうか?悲しくないですか?そういうことを私たちは神様にしているのです。
また「嫌だったこと」ばかりを思い出して、口にするなら、相手のイメージをいよいよ歪めて、心の中に「(実物とはまったく違う)バケモノ」を作り出してしまいます。聖書には「アブラハム、イサク、ヤコブの神」という表現が登場しますが、それは「アブラハム、イサク、ヤコブにいつも真実を行い、苦しい時に助けだして下さった神様」という意味があります。悪魔は、何とか神様のイメージをゆがめて、クリスチャンに祈らせないようにします。そんな罠に陥らないためにも、神様の前にゆっくり静まり、今まで良くしてくださった恵みを一つ一つ思い出す時間を持ちましょう。また個人的な体験とともに、御言葉を思い起こし、そこに記されている恵み深い神様に、心から賛美と感謝を捧げることが大切なのです。
願い事を祈る時も「感謝をもって」が大切です。これを感謝の「先取り」と言います。インターネットで注文して、まだ商品が届いていないのに、前もって「素晴らしい買い物でした。ありがとうございます!」とレビューを残すようなものです。聖書にはこうあります。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです(ヘブル11:1)」。「祈った通りに必ずなる」と信じ込むというよりも、(もちろんそう信じて祈るのですが)たとえそうでなくても、神様が、私たちの思いを超えて最善を行ってくださること信じて、感謝の祈りをささげるのです。
そうすることで、私たちは「人のすべての考えにまさる神の平安」に満たされます。自分の願いや祈りにしがみついて、ヤキモキ、ジタバタ、思い煩っていると、心は不健康になります。「期待が長びくと心は病む。(箴言13:12)」とある通りです。しかも、そこから生まれた不平不満が、悪魔に利用されてしまいます。だからこそ、いったん祈ったら、あとは「私たちがお願いする先に、私たちに必要なものを知っておられる」神様を「信じ」、この方に「ゆだね」「感謝」することが大切なのです。そうすることで、私たちの心はキリスト・イエスによって守られるのです。
103:1 わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。
103:2 わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
■ ピリピ4章4―9節
4:6 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
4:7 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。
4:6 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
4:7 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。