祈り その6 「苦い根を恵みに置き換える祈り」 ヘブル12章14‐17節

クリスチャンとして成長したい!もっと証しになる生活をしたい!!クリスチャンであれば誰もがそう思っています。そして、そうなれると思って、期待に胸を膨らませて、クリスチャンライフをスタートさせるのですが、だんだん、打ちのめされてきます。自分の中には、変わったと思っていても、変わっていない部分がる。それが、事あるごとにムクムクと頭をもたげて、自分を悩ませ、周りの人も悩ませている。自分で気づいていれば良いのですが、時には、自分でも気づかないうちに、同じ失敗と、破壊的な行動パターンを繰り返していることがある。そして、どうしてこうなってしまうのだろうか…と悩んでしまうのです。その正体は、何でしょうか?

それを「苦い根」と呼びます。ヘブル人への手紙12章15節にはこうあります。「そのためには、あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように」。これは大変です。この苦い根は、先ほども書いたように、本人を悩ませるだけでなく、多くの人が汚される(影響を受ける)とまで書かれています。

「苦い根」の「苦い」には、ぺクリアというギリシャ語が使われています。これは英語の聖書では「bitter」、つまり日本語の聖書と同じく「苦い」と訳されています。救われsweetな(甘い)人生を望んでいるのに、この「苦い根」が芽を出して、事あるごとに邪魔をする、本当に困った存在です。その直後の16節には、エサウが登場しています。彼は「俗悪な」と言われているように、一杯の食物と、神様の祝福である「長子の権利」を交換してしまうような人物でした(参:創世記25:33‐34)。そう考えると、この「苦い根」は、救われてからも、私たちを誘惑し、神様から引き離そうとする「欲望」であると言えます。

この「苦い根」には、また別の意味もありあす。更に詳しく、この「ぺクリア(pekria)」をギリシャ語の辞書で調べてみますと、「animosity 敵意 恨み」「anger 怒り」「harshness厳格さ 苛酷さ」という意味があることが分かります。つまりどういうことかと言うと、過度に厳しくしつけれたり、辛辣(しんらつ)なことばを投げかけられたり、そのように扱われたり…、そうして受けた心の傷を放っておくと、それが心の中のしこりとなり、「苦い根」となってしまうのです。

普段は、もう解決されたと思っていても、それが事あるごとに芽を出して、自分の行動に影響し、「どうしてこうなってしまうのか」と、自分も周りの人も悩ませてしまうのです。なによりも、本人が一番苦しんでいることでしょう。あなたの心の中にも「苦い根」はありませんか?未解決の「怒り」「敵意」「恨み」「苦々しい思い」はありませんか?聖書には「あなた方は良く監督して」とありますが、私たちはいったいどのようにして、自分の心を監督し、そういった感情コントロールすることが出来るのでしょうか?自分の力だけでは、なかなか難しいことです…。

ですから祈りが必要なのです。まずは祈りの中で、私たちの中の、私たちの傷ついた心に気づくことが出来ますように。詩篇にはこうあります。「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。(139:23-24)」そしてそれを認め、御前で告白するのです。その上で、何度も何度も「恵みの鐘」を鳴らす必要があります(別紙をご参照ください)。そこには、神様が私たちを、どのような者としてくださったのか、その恵みが箇条書きにされています。

人からの言葉ではなく、自分自身がどう思うかでもなく、この聖書の約束を、何度も何度も、とことん味わう必要があります。そして魂に刷り込み、主を見上げるのです。自分の心の中だけを探っていても解決はありません。それでは自己中心な祈りになってしまいます。主の祈りで学んだように、「天の父を仰いで」祈りをはじめ、最後には「国と力と栄」の全てを主にお返しすることが大切です。この「恵みの鐘」が、あなたの心に中に鳴り響きますように。あなたが、主の前に何者なのかを、正しく知ることが出来ますように。そして、苦い根が癒されますように。






というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。 
なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、 
恵みの下に あるからです。
ローマ6章14節 

わたしの目には、あなたは高価で尊い。
わたしはあなたを愛している。
イザヤ43章4節