『ソロモンの知恵』 Ⅰ列王記3章16~28節

<前回までのあらすじ>
前回の箇所で、主はソロモンに「あなたに何を与えようか。願え。」といわれました。その千載一遇のチャンスに、ソロモンは自分の経験不足を認めた上で、次のように願いました。「悪を判断してあなたの民をさばくために、聞き分ける心をしもべに与えてください(Ⅰ列王3:9)」。今日の箇所ではその知恵が実証されます。

二人の遊女が登場します。彼女たちは一緒に住み、三日おいてそれぞれ出産しました。ところが間も無く一方の赤ちゃんが死んでしまい、生き残った赤ちゃんがどちらの子か分からなくなってしまいました。原告の女性はこう主張しました。「夜中に相手の女が自分の子の上に伏してしまったから、その子は死んでしまったのだ。なのにこの女は夜中に起きて、私が眠っている間に、私の子を取って自分の懐に寝かせ、死んだ自分の子を私の懐に寝かせたのです(19-21)」。それに対してもう一人の女性は「いいえ、生きているのが私の子で、死んでいるのがあなたの子です(22)」と否定しました。

当時、王がいちいちそのような問題を直接さばいていたわけではありません。しかも相手は二人とも遊女でした…。ですがこの問題は命に関する問題であり、DNA検査もない時代では、「証言」と「証人」が全てであるのに、彼女たちの他に証人はなく、二人の言い分は真っ向から対立していました。そのような複雑な問題として、おそらく他では裁けず、王のところにまで上訴されてきたのでしょう。視点を変えれば、ソロモンに知恵を授けた神様が、その知恵を実証する機会としてこの問題を選ばれたのです。

神様は、あえて「この二人の遊女」を選ばれました。「しかも相手は二人とも遊女でした」と言いましたが、差別ではなく、当時の社会において彼女たちの存在は本当に取るに足らない存在でした。そんな彼女たちのために、王が裁いてくださる。このことは、前回ソロモンが「『あなたの民』をさばくために、聞き分ける心をしもべに与えてください」と願ったこととも関連していました。

つまり、彼女たちも大切な「あなた(神様)の民」だということです。彼女たちは好きこのんでこの職業についたわけではありません。不遇の人生を歩んできました。そんな中、我が子が与えられたことは、ささやかな喜びであり、幸せでした。それなのに、その子が理不尽に奪われてしまった…。神様は、小さき者の嘆きと訴えを聞いてくださり、適切に裁いてくださるお方である、そこのことをイスラエルの民全体に表すためにも、神様はこの問題を選ばれたのです。

ソロモンは剣を持って来させ「生きている子を切り分け、半分ずつ二人に与えよ」と言った。その時一人の女は胸が熱くなり「その子をあの女にお与えください」と言い、もう一人は「(誰のものにもさせないように)断ち切ってください」と言った。その瞬間「生きている子を、初め(原告)の女に与えよ。彼女が母親である」との宣告がくだった。全イスラエルは「王を恐れた」。ソロモンに宿る神の知恵を目の当たりにしたからです。

今日の箇所は、本物を見極めたソロモンの知恵の素晴らしさとともに、二つのことを語っています。一つは「本当の親の心」です。その子の母親であることを証明したのは、裁判に勝って自分のメンツを守ったり、相手の女への妬みを満足させたりすることよりも、我が子の幸せを第一に願う熱い心(子供ファースト・自己犠牲の愛)でした。もう一つは、神様もまた同じ愛で、私たち(ご自分の民)を愛しておられるということです。神様もまたご自分を犠牲にしても、私たちを愛してくださるお方です(十字架の愛)。この愛に触れる時、私たちの心は恐れ(畏敬の念)に包まれ震えるのです。