『アドニアの最期の悪あがき』 Ⅰ列王記1章50−53節、2章13−25節

<前回までのあらすじ>
前回の箇所でソロモンは、いよいよダビデの後継者として王に任ぜられました。(完全な移管は2章12節にある通りダビデの死をもってでした)。その際ダビデは、預言者ナタンによって油を注ぎ、角笛を吹き鳴らし「ソロモン王万歳」と叫ばせました。それを聞いてアドニヤの客たちは、身震いして帰途につきました。

その時、アドニヤは、ソロモンを恐れて立ち上がり、祭壇の角をつかみに行きました(50)。
この「祭壇の角をつかむ」行為には、どういう意味があるのでしょうか?幕屋(後の神殿)にある「全焼のいけにえを捧げる祭壇」の四隅には、青銅製の「角」がありました。大祭司は一年に一度、至聖所に入って、民全体の罪の赦しを祈りましたが、その「贖いの日」や(レビ16:18)、また支配者などの罪の赦しを祈る時などに(レビ4:7)、その角にいけにえの血を塗って罪の赦しを祈りました。アドニヤは、その角をつかむことによって、自分の罪の赦しと、命の保証を、ソロモンに願ったのでした。

そんなアドニヤに対し、ソロモンはこう言いました。「彼が立派な人物であれば、その髪の毛一本も地に落ちることはない。しかし、彼のうちに悪が見つかれば、彼は死ななければならない(52)」。つまり執行猶予つきの死刑判決が下ったのです(情けにより一定期間刑の執行を猶予し、その期間を無事に過ごしたときは刑を科さないという意味)。そうして人を遣わして、祭壇から彼を下ろし、ソロモンの前に連れてこられたアドニヤは礼をしました。そんな彼にソロモンは言いました。「家に帰りなさい(53)」。

それから、どれくらいの時がたったのでしょうか?そのアドニヤが、ソロモンの母バテ・シェバのところにやってきてこう切り出しました。「ご存じのように、王位は私のものでしたし、イスラエルはみな私が王になるのを期待していました。それなのに、王位は転じて、私の弟のものとなりました。主によって彼のものとなったからです。今、あなたに一つのお願いがあります。断らないでください。(15)」一応「主によって(王位は)彼のものとなった」とは言っていますが、未練タラタラな言いぶりです。

そして彼は「晩年ダビデ王に仕えたシュネム人の女アビシャグを、私に妻として与えてくださるように」息子のソロモン王に取り合ってください、とバテ・シェバにお願いしたのです。彼女は、どうやら全く疑わなかった様子ですが、これはとんでもない願いでした。彼の兄アブシャロム(アブサロム)の謀反の時、自分が王になったことを誇示するために、わざと目立つ所でダビデのそばめたちのところに入りました(Ⅱサム16:20-22)。丁寧な言葉で塗り固めてはいますが、弟のアドニヤは同じことをソロモンに願い出たのです。

しかし、ソロモンはすぐにアドニヤの邪悪な心に気がつきました。彼はこう言いました。「アドニヤが…自分のいのちを失わなかったなら、神がこの私を幾重にも罰せられるように。…アドニヤは今日殺されなければならない(24)。」バテ・シェバはどうなったのでしょう。彼女はこの後、歴史の表舞台から姿を消します。「気づかなかった」は、言い訳にはならないのです。アドニヤは、祭壇の角を握り、一度は救われましたが、結局、殺されてしまいました。

ところで、イエス様も「救いの角」と呼ばれていることを知っていますか?イエス様の誕生を前にして、ザカリヤはこう預言しました。「ほめたたえよ。イスラエルの神である主を。主はその民を顧みて、贖いをなし、救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた。(ルカ1:68-69)」このイエス様の与える救いは「立派な人物になったら」という条件つきの救いではありません。一度きりで完全な救いであり赦しです。私たちはその愛に応えて、立派に生きるのです。