はじめに 「一時間でも目を覚まして」 マルコ14章32-42節

第一回目の「いのちの水祈祷会」がこうして始まったことを本当にうれしく思います。主が何をしてくださるのか?ワクワクしています。でも正直に言いまして、今日まで、この祈祷会で何をしたらよいのか、頭を抱えていました。もちろん、祈ればいいのですが、より良い祈祷会を求めて、主からのヒントを祈り求めていたのです。そしてその答えは、今日の「リバーサイド聖書通読」の中にありました。ゲツセマネの祈りの箇所です。◇奇しくも、今私たちは、レント(受難節)を過ごしています。来週の金曜日は、イエス様が十字架にかかられたことを記念する「受難日」です。こういった時期に、もう一度、ゲツセマネの祈りを読むことができることは、何という恵みでしょうか?今日は、このゲツセマネの祈りから、三つのことを教えられたいと思います。

① イエス様は、一緒に祈る祈りの友を求めておられる。
イエス様は、この壮絶なゲツセマネの祈りの場に、ペテロとヤコブとヨハネの三人を連れて行かれました。イエス様はリーダーを選び、育てられる方です。そして12弟子の中で、特にリーダー的な立場として選ばれたのが、この三人でした。イエス様がリーダーたちに望まれることは何でしょうか?それはイエス様の心を理解し、ともに喜び、ともに悲しみ、ともに祈ることです。もちろんイエス様は神の子ですから、人の助けや同情などは必要ありません。でもイエス様は、私たちに責任をゆだね、御業に参加させ、神の国をともに建て上げ、喜びも悲しみも共有したいと願っておられるのです。それほどにまで、私たちを信頼し、必要としていてくださるのです。しかも私たちは、十字架の恵みによって救われ「友」と呼ばれる存在となりました(ヨハネ15:15)。その友として、私たちはイエス様の心を理解し、イエス様の喜びを喜びとし、悲しみを悲しみとしているでしょうか?イエス様は今も、天の父なる神の右に座して、一人も滅びることのないようにとりなし、祈っておられます(ロマ8:34)。私たちは、同じ心で、祈っているでしょうか?

② あなたは、イエス様はいっしょに目を覚まして1時間でも祈ることができますか?
イエス様は、私たちを友とまで呼んで、一緒祈ることを求められているのに、私たち人間はなかなか、イエス様と同じ気持ちになって祈ることができません。なぜでしょうか?「心は燃えていても、肉体は弱いからです」ペテロをはじめとする、3人の弟子は、眠りこけてしまいました。途中イエス様が起こしに来たのに、また眠りこけてしまい、そんな事を三度も繰り返してしまいました。ある人は、今日の私たちの祈りを妨げる三大要因を、こう上げます。①妨害(電話、メール、インターホンなど)②意識散漫(仕事が気になったり、空想したり)③眠気。でも、実は、もっと根本的な原因があるように思います。それは、そもそも、どう祈ったら良いのか分からない、という原因です。ある方は真剣に思うかもしれません「どう逆立ちしたら、1時間も祈ることが出来るのでしょうか?私なんか一生懸命祈っても、目を開けたら5分しかたっていません!」

③ 主の祈りの力
あるとき、イエス様の弟子たちも、同じ疑問をもちました。そしてイエス様にこうお願いしました。「主よ。…私たちにも祈ることを教えてください!(ルカ11:1)」その問いに答えて、イエス様が「祈る時にはこう祈りなさい」と教えられたのが、私たちが礼拝で祈っている「主の祈り」でした。イエス様も、もちろん、この祈りを毎日祈っておられました。またペンテコステ直前に、使徒たちが祈っていたのもこの祈りだと考えられています(原文には「あの祈りに専念していた(使徒1:14)」とある)。そして、この十字架にかかられる前夜、イエス様が、汗を血のしずくのように流して祈っておられたのも、この「主の祈りであった」とも言われています。イエス様は祈られました「どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください」これは主の祈りの「みこころが天で行われるように地でも行われますように」の部分だと言われています。主の祈りは、呪文のように唱えれば良いのではありません。主の祈りは、祈りの基本形であり、アウトラインです。私たちは、この主の祈りのアウトラインに沿って、自分の言葉で祈ることが大切なのです。今日から実際に「いのちの水祈祷会」で、私たちも、イエス様直々に、祈りを教えていただきましょう!