主の祈り その1「天にまします我らの父よ」 マルコ14章32-42節

前回から、新しく「いのちの水祈祷会」を始めています。一番変わった点は祈祷会が、「祈祷会になった」と言う点です。また祈るにあたって、自分たちの祈りを、もう一度、基礎から見直しています。その「基礎」とは「主の祈り」のことでした。弟子たちは、師であるイエス様に「私たちにも祈ることを教えてください」とお願いしました。この答えとして、教えていただいたのが「主の祈り」でした。この祈りは、ただ呪文のように唱えれば良いというものではなく、祈りのアウトラインだ、と話しました。前回から今日まで色々なレスポンスをいただいています。「家でも祈ってみたけど、めっちゃ時間がかかった!」「一時間祈れました」など。もちろん祈りの長さが重要なのではありませんが、祈り方が分かるというのは、私たちクリスチャンにとって最高の喜びです。そこで今日から、主の祈りの、より細かい部分についてみて行きたいと思います。最初は「天にまします我らの父よ」です。そこから三つの大切なことを教えられたいと思います。

① 信仰を持って天を見上げる
普段の私たちは、日常生活のことでいっぱいになってしまうことがあります。そんな毎日の生活の中で、ふと手を休め(もしくは両手を組んで)天を見上げてみる。実際に、天を見上げてもいいですし、目を開けていると色々なことが気になるので、通常は目を閉じて心の中で天を見上げたりします。そして心を静めて、神様に思いを集中し「天のお父さん」と呼びかけるのです。最初は不思議な感じがするかもしれませんが、それが祈りの第一歩です。色々な気持ちで呼びかけます。ある時は嬉しくて、学校から帰って来た子供が、息せき切って、親に話しかけるように、「お父さん」と祈るかもしれません。でも時には、苦しくて、苦しくて、やっとの思いで天を見上げて「お父さん」と呼びかけるかもしれません。人生には、なすべきことをしても、なかなか解決しない苦しみがあります。いまも実際、苦しみのただ中にある方があるかもしれません。でもそのような状況の中でも、上はポッカリ開いているのです(Ⅱコリント4:8)!八方ふさがりの中でも、私たちは天を仰いで祈ることが出来る。そこにおられる方は、誰よりも私たちの事をよく知っていて、私たちを助けて下さるお方なのです(詩篇121:1-2)。その方に全てを打ち明けることが出来るとは、何と大きな恵みでしょうか。あなたは自分ばかりを見ていませんか?問題ばかりを見ていませんか?本当の意味で、問題を解決することが出来る方を見上げてみませんか?

② お父さんの子どもとして祈る
その天を見上げ、イエス様は「お父さん」と呼びかけるように教えられました。前回もお話ししましたが、この祈りはもともとイエス様が個人的にも毎日祈っておられた祈りだと考えられています。イエス様にとって、神様は「お父さん」でした。洗礼を受けられた時、天からは「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」という声が聞こえて来ました。またイエス様も、事あるごとに「わたしと父とは一つです(ヨハネ10:30)」や「わたしを見た者は、父を見たのです(14:9)」とおっしゃられていました。父はわが子イエスを愛し、子であるイエス様は「天の父」を心から愛していました。ここに聖霊も含めた「三位一体の神様」は、愛の絆によって固く結ばれていました。その絆は、試練の中でも、揺らぐことがありませんでした。ゲッセマネの園でイエス様は「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください(マルコ14:36)」と祈りました。アバとは「パパ」のことです。そんなに個人的で、親密な父と子の関係に、イエス様は私たちをも招待してくださいました。そして私たちにも、自分のお父さんを「お父さん」って呼んでもいいよ、と言ってくださるのです。天のお父さんは、今や、我が子イエス様を愛したのと、まったく同じ愛で、私たちのことを愛してくださっています。そして私たちの幸せを心から願い、良いもので満ち足らせたいと願っておられるのです(ルカ11:11)。

③ その背後にある代償(十字架)を覚えて
でも、その親しい交わり(関係)に入れられるためには、尊い犠牲が支払われなければなりませんでした。旧約聖書を読めば分かるように、罪の赦しには「いのち」という代償が伴います。旧約聖書では牛や羊などでしたが、イエス様は私たちの罪のために、自らが十字架にかかってくださり、その代価を支払ってくださったのです。その尊い犠牲のゆえに、私たちは、天地万物をつくられた神様を、畏れながらも親しみを持って「お父さん」と呼びかけることが出来るのです。私たちは祈る度ごとに、この恵みを思い出して、ますます感謝する者でありたいと思います







詩篇
121:1 私は山に向かって目を上げる。
私の助けは、どこから来るのだろうか。
121:2 私の助けは、天地を造られた主から来る。

123:1 あなたに向かって、私は目を上げます。
天の御座に着いておられる方よ。

Ⅱコリント
4:8 私たちは、四方八方から苦しめられますが、
窮することはありません。
途方にくれていますが、行きづまることはありません。

Ⅰヨハネ
3:1 私たちが神の子どもと呼ばれるために、
──事実、いま私たちは神の子どもです──
御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。

ルカ
11:13 してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、
自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。
とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、
どうして聖霊を下さらないことがありましょう。