主の祈り その2「願わくは、御名をあがめさせたまえ」

私たちは、新しくなった「いのちの水祈祷会」で、主の祈りをともに祈り、学んでいます。前回は「天ましますわれらの父よ」について学びました。この主の祈りは、もともとイエス様が個人的にささげておられた祈りでしたから、そのイエス様が、神様を「お父さん」と呼ぶのは自然なことです。でもイエス様は、そのお父さんを一人占めしようとはせず、私たちにも「お父さんって呼んでもいいよ」と仰せられました。それは、言葉だけの問題ではなく、天のお父さんが、我が子イエス様と同じように、私たちのことを愛してくださり、私たちも、自分のお父さんに遠慮なく話しかけるように、話しかけても良いということなのです。◆また、私たちは、どんな苦しみの中でも、ポッカリ空いている天を仰いで「お父さん」に祈ることが出来ます。実はこの話しをした時、息子が後ろの方でこっそり顔を出して聞いていたのですが、その数日後、彼はこう言いました。「パパが、お祈りする時は天国を見上げて祈りなさいっていったから、僕、今日、幼稚園で賛美する時、上を向いていっしょうけんめい歌ったよ!」子どもの信仰とは何と素直なのでしょう。私たちも子供のような素直な信仰を持って、思いっきり天を仰いで祈りたいものです。

① 「御名」が「あがめられる」?

今日学ぶのは「ねがわくは御名をあがめさせたまえ」です。この表現は、初めて聞く人には、少し難しいかもしれません。「御名」とは何でしょう?神様の名前のことです。神様の名前は特別です。モーセの十戒には「主の御名をみだりに唱えてはならない」とありましたが、その意味は、神様の名前は「おそれ多くて、きよい名前」だから、むやみに口にしたり、「神様はこう言われた」と引用したりしてはいけない、ということでした。実際にイスラエルの人々は、「神様(ヤハウェ)」と発音しないように、わざわざ他の言葉(アドナイ)で代用して会話する徹底ぶりでした。◆日本語でも「名は体をあらわす」と言います。その意味は「名前は単なる言葉でなくて、その実体を表す」です。だから、その対象が神様だったら、なおさらのこと、その名前をおそれ、心をこめて呼ばなければいけないということです。「崇められますように」とはどういう意味でしょう?日本語の意味としては「尊敬されますように」との意味なのですが、もともとの新約聖書が書かれたギリシャ語を調べてみたら「御名が聖とされますように」と書かれていました。

② 「聖とされますように」?

「聖」はギリシャ語で「ハギオス」と言いますが、その意味は、旧約聖書が書かれたヘブル語の「コーデシュ」からも引き継いでいます。「コーデシュ」には「切り離す」とか「分離する」という意味があります。つまり「御名が聖とされますように」には「神様が、私たちやこの世とは切り離されて、聖でありますように」との意味になるのです。もう少し分かりやすく訳せば「わたしたち人間によって汚されることなく、永遠に聖く、神が神であられますように」との意味になります。「天にまします私たちのお父さん」と親しく呼びかけた後、でもお、それをもって「御名が聖とされますように」と祈ることに重要な意味がある様に思います。◆ 先日(2014.5.13)ブラジル・サッカーワールドカップの日本代表が発表されました。その中にマンチェスターユナイテッドの香川真司の名前がありました。その名前を見て、元日本代表監督のオシム氏はこう言いました。「香川は今季、あまり出場機会に恵まれなかった。でもプレーの仕方を忘れたわけではないだろう。…自分が香川であることを思い出してほしい。そしてW杯では思いきりプレーしてもらいたい。」何という励ましの言葉でしょうか!私はこの「自分が香川であることを思い出してほしい」との言葉に感動しました。「香川が香川らしくあることを期待している」「それさえ忘れなければ大丈夫だ!」と、老監督が、若手にエールを送っているように聞こえたからです。

③ 神様が神様らしく?

私たちは、神様が神様らしくあることを願い、喜んでいるでしょうか?それとも神様が、私たちの言うことを聞き、私たちの思い通りになることを期待しているでしょうか?それは「御名が聖とされますように」とは逆の信仰です。いや、信仰とも言えない、自分の願いを聞いてもらうための偶像崇拝ではないでしょうか?本当の信仰とは「神様が、神様らしくあることを願い、それを自分の喜びとすること」です。あなたは「神様が神様らしく、思い切り、この地上で『みこころ』を行ってくださること(プレーすること)」を願い求めていますか?そして、もしその神様からパスを受けたら、自分も全力でドリブルし、ゴールを目指す心の準備が出来ていますか?そうした神第一の信仰と、従う心構えが、「御国を来たらせたまえ」の祈りへと続くのです。