前回は「御国(神の国)が来ますように」との祈りでした。この祈りの反対は「オレ様の王国が実現しますように」です。私たちは、神様のみこころを二の次三の次にして、「自分のお心」を祈り求めてはいないでしょうか。そして祈りが聞かれないと、神様に不平不満をもらし、時には祈る熱意そのものを失っていないでしょうか。しかしイエス様の教えられた本当の祈りは、自分の願いではなく、まず「御国を来たらせたまえ」と「神の国(神の支配)」を求めるのです。自分の願いではなく、まず、神の国をどの義を第一に求める姿勢は、信仰の基本中の基本です。
① 私たちが、天使となる!?
今日学ぶのは「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」という第三の祈りです。この祈りは、繰り返しになりますが、前回の「御国を来たらせたまえ」と密接につながっています。どういう点でというと「自分中心ではなく、神様中心」という点にて深く繋がっています。つまり、自分の「お心」ではなくて、神様の「みこころ」を切に求める祈りです。◆信仰のエッセンスを凝縮したハイデルベルグ信仰問答というものがありますが、その第124問にはこうあります。「問:第三の願いは何ですか。」「答:『みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ』です。すなわち、私たちすべての人々が、自分自身の思いを捨て去り、唯一正しいあなたのみこころに、何ひとつ逆らうことなく、聞き従えるようにしてください。そして一人一人が自分の務めと召命とを、天の御使いのように、喜んで忠実に果たせるようにしてください、ということです。」つまり私たちは、この地で神様の御心を実現する、天国から派遣された「天使である」と言われているのです。驚きではないですか?羽は生えていませんが、私たちは天使なのです!
②天使としての、自覚と責任!
しかし「私は天使ぃ!!」とウカレテいるわけにもいきません。天使には、自覚と責任が求められます。どのような自覚でしょうか?「自分が、もはやこの世のものではない」という自覚です。イエス様に出会い、救われた瞬間、私たちの国籍は「天国」に移されました(ピリピ3:20)。そして今や、私たちは「天国本店」から「天国支店(地上)」に送られ、教会を拠点に「地上に神の国を建設するため」それぞれの場所に派遣されているのです。あなたが毎日、どんな場所に、派遣されていますか?学校ですか?バイト先ですか?仕事場ですか?そこであなたは「天国から派遣された天使」という自覚をもって生活しているでしょうか?人々は、私たちの良い行いを見て、天の父をあがめているでしょうか?◆ また私たちには、どのような責任があるのでしょうか?それは、自分のために死んで、よみがえってくださった方のために生きる、という責任です。イエス様は、そのことを、このように説明されましたす。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい(マタイ16:24)。」この自覚と使命に生きる者こそが、本当の「天使」なのです。反対に、派遣してくださっている方のみこころを無視して、やりたい放題やるなら、それは神様を悲しませる罪(的外れ)です。
③ 天使としての最高の模範
天国からこの地上に派遣された方、すなわち天使として、私たちの最高の模範はどなたでしょうか?その方こそイエス・キリストです。イエス様こそ、天でのあり方を捨てることが出来ないとは考えないで、この地上に下り、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになってくださった方です。そして、実に、十字架の死にまでも従ってくださいました(ピリピ2:6-8)。その十字架にかかる前夜、イエス様はこのように祈られました。「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください(ルカ22:42)。」◆ 私たちも、天に国籍を置く、天から派遣された天使として、どこまでも低く人々の中に入っていき、人々を愛し、仕えるものでありたいと思います。そして、人々の間に、真の平和(神の国)をもたらしていくことが出来ますように。そのためにも、私たちは、よくみことばを読んで、まずみこころ正しく理解し、そして、勇気を持ってそれを実践していくのです。「みこころが…行われますように」とは、誰かが行ってくださるように、という「人ごと」の祈りではなくて、自分たちを通してという「自分のこと」としての祈りなのです。
「父よ。みこころならば、
この杯をわたしから取りのけてください。
しかし、わたしの願いではなく、
みこころのとおりにしてください。」
すると、御使いが
天からイエスに現れて、イエスを力づけた。
イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。
汗が血のしずくのように地に落ちた。
ルカ福音書22章42‐44節