今日学ぶ主の祈りは「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」です。この「日用の糧」との訳は、「プロテスタント訳」といわれ、1880年(明治13年)からプロテスタント教会で広く使われています。私たちの聖歌の表拍子を開いた所にも、この訳が記載されています。しかし、なぜか、私たちの教会では伝統的に(?)、礼拝の中でも「日ごとの糧」と言われています。これは新改訳聖書の訳です(マタイ6章11節)。また、そこには脚注も添えられていて、別訳「明日のための糧」あるいは「必要な糧」となっています。そこで、もともとの意味を調べてみますと、どうやら、「毎日の」というより「この次の」という意味だと分かりました。つまり、朝ごはんを食べたら昼ごはん、昼ごはんを食べたら夜ごはん、夜ごはんを食べたら次の日の朝のご飯といった具合に。
① 日ごとの糧・・・私たちの日々の必要を、究極に満たすお方は誰?
どうして私たちはそのように祈るべきなのでしょうか?もっと貧しい国だったら分かります。次の食事にありつけるかもわからなければ、必死になって「次の食事を与えて下さい」と祈るでしょう。でも日本において、そのようなケースはまれです。それが同時に問題でもあります。私たちには、いつの間にか「自分の力だけ」で生きていると思っていないでしょうか。◆聖書にはこう書いてあります。「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。マタイ6:26」「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。ヤコブ1:17」。◆私たちは、神様の恵みによって生かされているのです。そのことを、いつの間にか忘れ「私が働いて、自分で食べているんだ」と思ってしまうのです。しかしその働く力はどこから来ているのでしょうか?私たちは、与えられているものに対する感謝と、生活の細部に至るまで、主により頼んで生きる(生かされている)ことを忘れないために、この祈りを毎日祈る必要があるのです。
② 日用のみことば…「聖書通読」と「聖日礼拝」
この祈りは「日用の糧を」との訳で広く祈られていることは、先にお話ししました。「日用」というと、「日用品」とか「日用雑貨」とか、それほど高価ではないけれど、生活に欠かせないもののことを言うのではないでしょうか。それは決して「食べ物」に限ったことではありません。私たちはこの祈りの中で、日々の生活の中で必要な、様々なものが与えられるように祈るのです。◆また同時に、霊的な必要も含んでいます。イエス様はこう仰せられました「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。マタイ4:4」。しかも「日用のみことば」なのです。どこかの大きな集会とか有名な講師から、恵まれるお話しを聞くのも良いでしょう。しかし、私たちの体を作っているのが家庭の味であるように、私たちの霊性を形作っているのは「日用のみことば」なのです。◆あなたは毎日聖書を読んでいますか?それが信仰の基礎体力を養います。また毎主日ごとの母教会の「家庭の味(みことば)」によって養われていますか?それらが、あなたの信仰の成長にとって、必要不可欠な栄養となっているのです。毎日聖書を読む前に、そして聖日礼拝でみことばを聞く前に、この祈りを祈ってから聞きたいものです。
③ 自己中心ではなく…「我ら」と「みこころ」
このように、この「日用の糧を与えたまえ」との祈りは、私たちの霊肉の必要を求める祈りです。しかし、大切なことを忘れてはいけません。それは、この祈りが「我らの」となっていることです。この祈りは、ただ単に「私の必要」を求める祈りではないのです。あなたは、自分の必要を求めるのと同じ熱心さで、友人知人、家族、教会、困っている人々の必要を祈っていますか?どこで何が必要とされているかアンテナを張り、心をこめて祈っていますか?見渡せば、病の癒しや、霊性の回復なども含め、様々な必要抱えた人々と団体があることでしょう。◆また、もう一つ大事なことがあります。それは「必要」よりも「みこころ」の方が重要だと言うことです。この「日用の糧」に至るまで、どんな祈りがありましたか?御名を呼び求め、賛美し、御国を求め、みこころを求めて祈って来ました。それがまず第一に大切なことなのです。聖書の中にもこう約束されています。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。マタイ6:33」またイエス様も十字架を前にしてこう祈られました。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。26:39」
すべての良い贈り物、
また、すべての完全な賜物は
上から来るのであって、
光を造られた父から下るのです。
父には移り変わりや、
移り行く影はありません。
ヤコブ1:17
『人はパンだけで
生きるのではなく、
神の口から出る
一つ一つのことばによる。』
マタイ4:4