主の祈り その6「我らが赦すごとく」

今日学ぶ主の祈りは少し長い言葉です。「我らに罪をおかす者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」です。この祈りが、前回の「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」の直後に来ていることに深い意味があります。というのは、この「赦し」の問題が、「日用の糧」と同じぐらい、私たちにとって日常のことであり、また切実(不可欠)な問題だからです。環境や、性格にもよるのかもしれませんが、私たちは生活の中でしばしば腹を立てます。しかも自分には非がなく、相手が悪いとしたら、なおさら「赦し」のハードルは上がります。多くの人が、この祈りまで来て、これ以上、祈れなくなってしまいます。自分には、どうしても赦せない人がいたりするからです。しかも「我らが赦すごとく」とあることが問題です。もし私たちが、自分の赦すようにしか、神様に赦してもらえないのだかとしたら、実に困った問題ではないでしょうか?

① 我らが赦すごとく・・・まずそう祈りなさい!

ある牧師が、中高生の夏季学校で語ったところ、こう質問されたそうです。「教会学校で主の祈りを教えられました。今度の夏季学校でも、この主の祈りを一生懸命祈ることによって、祈りということを身につけてごらんと教えられました。けれども私には出来ないのです。なぜかと言うと、私に罪を犯したものを私が赦すようにとは、どうしても言えないのです。どうしたらいいですか?」するとその牧師はこう答えたそうです。「(それでも)祈り続けることが大切です。心をこめて。そこでなお途方に暮れる。それならば、その途方に暮れると言うことを大切にしたらいい!」(加藤常昭「信仰講話7」p286-288要約)◆私たちはもっともらしい理由をつけて、この祈りを捻じ曲げてしまいます。そして「私たちが赦すことは、条件ではないのだから、キリストの赦しだけを心にとめたらいい」というのです。でも本当にそうでしょうか?私たちが、この祈りを祈る中で、赦せない自分に直面し、愕然とし、これ以上祈れなくなってしまう。そんな自分に改めて出会うことによって、この祈りは「日用の糧」くらい、自分にとって切実な現実の問題となるのではないでしょうか。まずは、このまま祈ることが大切なのです。もしこの祈りがなく、ただ「私たちの罪を赦して下さい」「赦して下さりありがとうございます」だけだったら、何と「軽々しい」のでしょうか。「神の赦し」は「私たちが赦す」ことと、表裏一体なのです。

② 我らに罪を犯す者を…「なんで私が?」というい気持ちとの戦い。

この赦しという問題と向き合う時、私たちが直面するのは「なんで私が赦さなければいけないのか」という思いです。「我らに罪をおかす者を」とある通り、悪いのは相手なのです。しかもその相手は、自分をこれほど深く傷つけたことを、何とも思わず反省もしていないかもしれません。そんな相手を、なぜ私がこれほど苦しんで赦さなければいけないのか?「そんなの不条理だ!」と感じるかもしれません。しかしそれでも「我らに罪をおかす者を、我らが赦すごとく」と祈り続けるなら、私たちは自分自身の本当の姿と、イエスの十字架の赦しの大きさを発見するのです。◆世界でただお一人、罪のない神のひとり子が、天の父に見捨てられ、十字架で、人の手によって、なぶり殺されました。これ以上の不条理はありません!しかもイエス様は、自らすすんで十字架の道を選びとってくださったのです。聖書にはこうあります。「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。(ローマ5:8)」そこにあるのは、自分の力では決して赦すことのできないちっぽけな私と、そんな私たちのために命を投げ出してくださるイエス様の愛の大きさなのです。

③ 我らの罪を赦したまえ…赦された者として生きることの大切さ!!

私たちは「相手の罪を大きく」「自分の罪を小さく」考える傾向があります。今日の祈りに併せてマタイ18章21-35節の話しも読みたいと思います。二人のしもべがいました。一人は王様に一万タラント(六千億円)の負債を抱えていましたが、一方的な憐みによって赦してもらいました。しかしその帰り、彼は、自分に百デナリ(百万円)の借金をしているしもべ仲間を見つけ、首を絞め、牢に投げ込んでしまいました。王はそれを聞き非常に怒って、こう言いました。「私があわれんであったように、おまえも仲間を憐れんでやるべきではないか!」◆私たちも同じことをしていないでしょうか?一方的な恵みによって赦されたのに、人に対してあまりにも厳しく、冷淡になっていないでしょうか?そんな自分に気づくなら、何度でも十字架のもとに立ち返って、こう祈りたいと思います。「主よ、これが私です。愛がないのです。自分の力では赦せません。でもあなたは、こんな私のためにも十字架にかかって下さいました。ありがとうございます。どうか私が、あなたの恵みによって赦された者として、憐れみ深くあることが出来ますように。アーメン!」




そのとき、ペテロがみもとに来て言った。
「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、
 何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」 
イエスは言われた。
「七度まで、などとはわたしは言いません。
 七度を七十倍するまでと言います。」

<中略>

『私がおまえをあわれんでやったように、
 おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』

マタイ18章21-22,33節