主の祈り その8「国と力と栄とは」マタイ6章33節、Ⅱコリント12章9―10節

前回は「我らをこころみにあわせず、悪より救いい出したまえ」との祈りから教えられました。この祈りを、自分の祈りとして捧げるためには「まず自分の弱さを認めること」から始めなければなりませんでした。そして弱さを認めたうえで「どうか神様、私たちを試みに会わせないで、あらゆる悪と災いから救い出して下さい」と祈らなければならないのです。それは決して、弱虫のするではありません。パウロは「ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」と言いましたが、自分の弱さを認め、主に祈ることが、本当の強さへと繋がるのです。その時、自分の力にまさる、主の力が、私たちを覆うからです。

① 祈りの目線が下がって来てはいないか?

「国と力と栄とは、限りなくなんじのものなればなり。」主の祈りは、もともと「天にまします」と天を仰ぐことから始まっています。そして、「神様の御名をあがめ」「神の国を求め」そして「みこころの成ること」を求めて始まりました。でも、その直後、「私たちの日用の糧」を求め、「私たちの罪の赦し」を乞い、「私たちを悪から救い出して下さい」と祈る中で、私たちの目線はふたたび下がり、自分と、自分の半径1メートルことばかりで一生懸命になっていないでしょうか?私たちの祈りというのは、放っておくと、自分のことばかりになってしまうか、そうでなくても自分と、自分の知人友人、そして家族のことばかりになってしまうのです。でもクリスチャンの祈りは、そんな「自分および人間中心」の祈りではありません。あくまで神様中心の祈りです。◆ハイデルベルグ信仰問答にはこうあります。問128「この祈り(主の祈り)は、どのように終わっていますか?」答え128. 「国と力と栄とは限りなくなんじのものなればなり(あなたのものだからです)」です。「これらすべてものものを、私たちがあなたから求めるのは、あなたこそ、私たちの王であり、力に満ちあふれ、私たちに最高のものを与えたいと願っておられ、また与える力のあるお方だからです。それゆえ私たちは、自分ではなく、あなたの聖い御名が、永遠にほめたたえられることを祈るのです。(私訳)」

② 結局、あなたは何を求めているのか?

最後に、私たちはもう一度自分自身に問い直してみたいと思います。私たちは結局、何を主に求めているのでしょうか?何のために祈っているのでしょうか?その熱心さはどこから来ているのでしょうか?異邦人(聖書の神様を知らない人々)も熱心に祈ります。その熱心さは、時にクリスチャン以上です。彼らは祈ります。家内安全、商売繁盛、豊作、健康と癒し、そういったことを切に求めています。◆では私たちはどうでしょうか?私たちも結局は、自分の願いがかなう「自分の王国」と、神様に頼らず生きて行ける「自分の力と健康」、そして成功と祝福といった「自分の栄(さかえ)」を熱心に祈っているのでしょうか?もし、そのような願いしか祈り求めていないのだとしたら、異邦人が、石や木に向かって捧げる祈りと、変わらないではありませんか?

③ あなたは本当に、神の「国と力と栄」を祈り求めているのか?!

自分の祝福を、祈ってはいけないのではありません。でも「たとえ、この世の中では自分の思い通りにならず、力がなく、世間一般の人が祝福と呼ぶようなものがなくても、あなたは、天のお父さんを、自分の王、主として崇め、賛美しますか?」もっと言えば「あなたの弱さを通して、天のお父さんの栄光が現れるのであれば、あなたは喜んで、自分の弱さを受け入れることが出来ますか?」と問われているのです。パウロはこう言っています、「ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」◆最後にもう一度、心の目を天に向け、祈りましょう。この天のお父様こそが、この世界の、まことの王として、私たちを完全にご支配してくださるように。そして、このお父様のみに、力と栄光がありますように!「私は、どうなってもいいの?」と心配する必要はありません。神様を第一とする時、「あなたがお願いするよりも先に、すべての必要を知っておられる天の父が(6章8節)」すべての必要を満たし、あなたの人生に責任を取ってくださるのですから。

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。
そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
(マタイ6:33)

しかし、主は、
「わたしの恵みは、あなたに十分である。
 というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」
 と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、
 むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
ですから、私は、キリストのために、
 弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。
 なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。
(Ⅱコリント12章9-10節)

主よ。偉大さと力と栄えと栄光と尊厳とはあなたのものです。
天にあるもの地にあるものはみなそうです。主よ。王国もあなたのものです。
あなたはすべてのものの上に、かしらとしてあがむべき方です。
(Ⅰ歴代誌29:11)


<参考>
マタイ6章13節「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン」なぜか、この部分にだけカッコが付けられています。脚注にも「最古の写本ではこの句は欠けている」とあります。ルカ福11章にも、この句はありません。イエス様はこの部分を教えられなかったのでしょうか?そんなことはありません。この句がなければ、祈りとして突然プツンと終わっていることになり、あまりにも不自然です。おそらく、こう祈るのが当時の習慣であり記すまでもなかったか、各自が自分の言葉で頌栄をおぎなって祈れるようにと、マタイらが配慮したと考えられます。(J.Jeremias,Unknown Saying of Jesus,1957)