主の祈り その9「アーメン!」 ローマ8章34節、Ⅱコリント1章20節など

前回は「国と力と栄とは限りなくなんじのものなればなり(あなたのものだからです)」の祈りから教えられました。主の祈りは、もともと「天にまします」と天を仰ぐことから始まりました。しかし「日用の糧」「罪の赦し」「悪からの救い」を祈るうちに、私たちの視線は下がり、身の周り半径1メートルことばかりになっていないでしょうか?そこで私たちは最後にもう一度、天を仰ぎ「国と力と栄のすべてあなたのものです」と、主を賛美する必要があるのです。「私は、どうなってもいいの?」と心配する必要はありません。神様を第一とする時、神様ご自身が、すべての必要を満たし、私たちの人生に責任を取ってくださるのですから。今日はいよいよ最後です。

① 「アーメン」は教会全体に活気を与える!

アーメンは、もともとヘブル語の「アーマン(その通りです)」が語源です。それがギリシャ語の「アーメン」(英語読みは「エイメン」)になり、世界中で、祈りの結びの言葉として唱えられています。旧約聖書の時代から、祈りやメッセージの中で「そのごとくなりますように」との同意の気持ちを込めて、唱えられるようになりました。今日でも、メッセージの途中で「本当に、その通りです」「そうなりますように」という気持ちを込めて、力強く「アーメン」と合いの手が入ることがあります。そうすることによって、語り手(祈り手)は励ましを受け、俄然(かぜん)力が入ります。また会衆全体もひとつの心になります。テクニックではありませんが、アーメンは教会全体に活気を与えるのです。◆ところで私たちは、自分の祈ったことに対して、心から「アーメン」と言っているでしょうか?また、他の人が祈った祈りに、心からのアーメンで答えているでしょうか?神様は、私たちのうわべではなく、心を見られます(Ⅰサム16:7)。いつの間にか、この「アーメン」でさえも、あいさつ程度の決まり文句になっていないでしょうか?

② 自分の気分や確信によらず「アーメン」!

時には、祈りながらも確信がない時があるかもしれません。また、気持ちが入らず、冷めた気持ちで祈っていたり、虚しく感じることもあるのかもしれません。また時には、他の人の祈りに、同意できない時もあるのかもしれません。そんな時は「アーメン」と言わなくても良いのでしょうか?「だって、そういう気分なんだから仕方ないもん」なのでしょうか?そうではありません。気分によらず、信仰によって、私たちはそれでも、心からの「アーメン」を捧げることが出来るのです。◆ 聖書にはこうあります。「どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン(エペソ3:20-21)」。私たちの熱心さが、私たちを救うのではありません。私たちの確信が、祈りに魔法の力を与えるのでもありません。それらも大切ですが、確信という点においては、間違った確信ほど厄介なものはなく、熱心さにおいては異教の人々の方が、はるかに熱心である場合もあります。もっと大切なのは、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて、豊かに施すことのできる方に、すべてをゆだね祈ることなのです。

③ イエス様を信頼し、待ち望んで「アーメン」!

ですから私たちは、祈りを止めてはいけません(Ⅰテサ5:17)。私たちが祈る時、一緒に祈っていてくださる方がいます。その方こそ、ゲッセマネの園で祈られた主イエス・キリストです。イエス様は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。私たちが弱い時、熱く祈れない時も、「そんな祈りじゃ答えられないぞ~!」と意地悪く突き放す方ではなく、愛をもって、私たちの祈りに耳を傾け、その祈りを、父なる神にとりなしてくださるお方です(ロマ8:34)。だから私たちも、安心して大胆に、神に祈ることが出来るのです(ヘブル4:14-15)!◆またこれは、個人的に教えられていることですが、「御国を来たらせたまえ」と始まった主の祈りは、その御国の完成、すなわちイエス様の再臨を待ち望んで締めくくられているとも言えます。聖書はこう結ばれています。「しかり。わたしはすぐに来る。アーメン。主イエスよ来てください。主イエスの恵みがすべての者とともにあるように。アーメン(黙22:21)」。私たちは、最後にもう一度天を仰いで「御国が来ますように」「イエス様来て下さい」との願いを込めて「アーメン」と祈ります(黙3:14)。悲しみも、涙も、全ての苦しみには終わがあることを信じて…(黙21:4)。



神の約束はことごとく、この方において「しかり」となりました。
それで私たちは、この方(イエス・キリスト)によって「アーメン」と言い、
神に栄光を帰するのです。(Ⅱコリント1章20節)

罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、
いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、
私たちのためにとりなしていてくださるのです。(ローマ8章34節)