教会の年間テーマを「絶えず祈りなさい!火の城壁を築くために。~教会で祈る、家族と祈る、奥まった部屋で祈る~」と掲げ、ここまで歩んできました。新しく再出発した「いのちの水祈祷会」では、ずっと「主の祈り」を学ぶと同時に、実際に「主の祈り」をアウトラインとした、本来の祈りを捧げて来ました。その学びも前回の「アーメン」をもって完結しました。◆しかし礼拝では、マタイ福音書の連続講解をしていて、今まさに「主の祈り」を読んでいます。前回は「6:10 御国が来ますように」を読んだところです。この一連のタイミングに、主の摂理を感じます。私たちはいま、神様から、集中的に、祈りについて教えられ、祈りの中に導かれています。そして今回は、先週の早天祈祷会で教えられたことから、「祈り」について分かち合いたいと思います。
場面は、預言者エリシャが死の病をわずらっていたときのことです(14節)。北イスラエルの王のヨアシュは、エリシャのところに下って行き、彼の上に泣き伏して「わが父。わが父。イスラエルの戦車と騎兵たち」と叫びました。ヨアシュは「ヤロブアムの罪」、つまり金の子牛を作り「これがあなた方をエジプトから連れ上った神だ」という偶像礼拝の罪から離れられなかった悪い王です(Ⅰ列王記12:28)。しかしもう一方で、彼はエリシャを尊敬していたました。そしてエリシャのおかげで、イスラエルの平和が守られてきたことを認めていたのです。◆そのエリシャが、病の床からヨアシュにこう語りかけました。「弓と矢を取り、弓に手をかけなさい」。そして自分の手をヨアシュの手の上にのせて、「東側の窓を開け、矢を射なさい」と命じました。ヨアシュは、言われた通りにしました。エリシャは、それを見て、こう言いました。「主の勝利の矢。アラムに対する勝利の矢。あなたはアフェクでアラムを打ち、これを絶ち滅ぼす!」(15-17節)。
その直後、エリシャは再度「矢を取りなさい」と言い「それで地面を打ちなさい」と命じました(18節)。するとヨアシュは、三回だけ打ちましたが、すぐに止めてしまいました。勝利の矢と言われたことに気をよくし、意気揚々と従ってはみたものの「これぐらいで良いだろう」と思ったのでしょうか?もしくは、尊敬するエリシャに言われるまま、従ってみたものの、地面に向かって矢を射るという行為に何の意味も見出せず、そうし続けることに苦痛を感じたのでしょうか?(人間は、理解できないことをし続けることに苦痛を感じるものです。)理由は、いろいろ考えられますが、それを見たエリシャは激怒し、こう言いました。「あなたは、五回、六回、打つべきだった。そうすれば、あなたはアラムを打って、絶ち滅ぼしたことだろう。しかし、今は三度だけアラムを打つことになろう。」◆イエス様は、主の祈りの直前にこう教えられました。「異邦人のように、同じ言葉をただ繰り返してはいけません。彼らは言葉数が多ければ、聞かれると思っているからです。」そして非常に簡潔にまとめられた「主の祈り」を教えられました。しかし、祈りには、もう一つの大切な側面があることを忘れはいけません。それは熱心に、あきらめずに祈り続けるという面です。ヨアシュは三度地面を打って「これぐらいで良いだろう」と思い、止めてしまいました。そして、主の与えようとしておられる「更に大きな勝利」を逃してしまったのです。
私たちはどうでしょうか?主に期待して意気揚々と祈り始めたものの、徐々に冷めてきて「これぐらいでいいかな」と、祈ることも、求めることもやめてしまうことはないでしょうか?また始めから、祈りの力に半信半疑で、とりあえず祈ってはみるものの、何の手ごたえも感じられず、固い地面に矢を射続けるような祈りをささげる中で「こんなことをして何になる」「もう止めてもいいんじゃないのか」との否定的な思いに負けてしまうこともあるでしょうか?祈り始めることも大切ですが、祈り続けるには「それでも主に期待し続ける信仰」が必要なのです。◆聖書にもこうあります。「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです(マルコ14:38)。」神様は、私たちが思うこと以上に、私たちに大きな勝利を与えようとしておられます。ただ私たちの信仰の器が小さいがために、その勝利を受け取れないことがあります。主は、私たちにもこう言われます。「あなたは、五回、六回、打つべきだった。そうすれば、もっと大きな勝利を収めることが出来たのに。」どんな状況の中でも、すぐには結果が返ってなかったとしても、それでも信じ、祈りの矢を射続ける者でありたいと思います。
神の人は彼に向かい怒って言った。
「あなたは、五回、六回、打つべきだった。
そうすれば、あなたはアラムを打って、
絶ち滅ぼしたことだろう。
しかし、今は三度だけアラムを打つことになろう。」
Ⅱ列王記13章19節