前回は「これぐらいでいいだろう?はダメだろう!」と題して学びました。北イスラエル王国の王ヨアシュは、預言者エリシャに「矢を取り、それで地面を打ちなさい」と命じられ、その通りにしました。しかし、三回だけ打って止めてしまいました。「これぐらいで良いだろう」もしくは「こんなことして何になる?」と思ったのでしょうか?エリシャは激しく怒り、こう言いました。「あなたは、五回、六回、打つべきだった。そうすれば、あなたはアラムを打って、絶ち滅ぼしたことだろう。しかし、今は三度だけアラムを打つことになろう。」私たちも「これぐらいでいいかな」「こんなことをして何になる」と祈りを中途半端に止めてしまうことはないでしょうか?私たちの、信仰の器が小さいがために、大きな祝福を逃してしまうことがあるのです。
今日のタイトルは「高い地位にある人のために祈れ」です。なぜこんなことが書かれているのでしょうか?テモテは、霊的な父であるパウロから、エペソ教会を任されて、日々、奮闘していました。しかし、実際は様々な問題に直面していました。そんな中でパウロは「我が子テモテ」を励まし、困難な状況の中でも、指導者として皆の模範となり、福音にしっかり立って、どのように教会をたて上げたらよいのか、具体的に教えたのです。◆その筆頭に来ているのが「すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい(1)」でした。いろいろな問題に直面する時、私たちは色々な「解決策(方策)」を求めます。しかし、パウロのアドバイスそうではありませんでした。「願い、祈り、とりなし、感謝」は、どれも祈りを表す言葉です。「まず祈りなさい!」と若いテモテを戒めているようです。全ての人のためはもちろん、特に「王と高い地位にある人たちのために」と言っています。その中には、当然ローマ帝国の皇帝や地方総督、高官も含まれていたことでしょう。
その人が好きなら祈って支えなさい、と言っているのではありません。当時ローマ帝国による迫害は、すでに始まっていました。パウロ自身、上に立てられた権威によって、捕らえられ、何度もムチ打たれました。この場合の祈りは、むしろ「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい(マタイ5:44)」というイエス様の教えに基づく祈りです。「高い地位にある人」のために、祈るべき理由は、大きく三つあります。◆①それは「私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすため(2)」です。福音をまっすぐに語るときに、迫害は避けられないのかもしれません。しかし出来る限り、混乱を避け、平和を求めるのがクリスチャンのあるべき姿です。福音を語らなかったり、隠したりする人間的な方法はいけません。でも祈りによって「静かな生活」を求めることは、みこころにかなっているのです。②そうすることは「私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれること(3)」だからです。政治活動に忙しくしたり、革命をおこしたりするより、まず私たちが、信仰者としてすべきことは「祈り」なのです。主も、それを望み、喜んでくださいます。③最後に、保たれた秩序(平和)の中で「すべての人が救われて、真理を知るようになる(4)」ためです。この一番の目的を、忘れてはいけません。
私たちは、高い地位にある人たちのために祈っているでしょうか?好き嫌いではありません。自分がその人物や政党を支持しているとか、投票したかという問題でもありません。正しい政治が行われ、迫害が回避され、平和の内に福音が広まるために、いま現実に立てられている「国のリーダー」のために祈っているでしょうか?また、今なお、国民に大きな影響力をもっている天皇一家のために祈っているでしょうか?クリスチャンも、一国民として、こう言った方々のために祈ることが、果たすべき「社会的責任の第一歩」です。その他にも、何かとトラブルになりやすい隣国の指導者のため。また影響力のあるアメリカ大統領の正しい判断のためにも、祈っていきたいと思います。◆同時に、クリスチャンに対する迫害が起きている、国や地域のためにも祈っていきたいと思います。2014年11月9日は世界福音同盟(WEA)の呼びかけによる「迫害下の教会のために祈る国際祈祷日2014」です。その発表によると、今、約一億人のクリスチャンが迫害下にあると言われています。世界で起きている宗教迫害の、何と80パーセントが、クリスチャンに対する迫害なのです。しかも、その激しさは年々増すばかりです。一日も早く、その国の平和が回復され、現地の政治と治安が正常に機能しますように。関心をもち続け、祈りましょう。
王たちやすべての高官のためにもささげなさい。
わたしたちが常に信心と品位を保ち、
平穏で落ち着いた生活を送るためです。
Ⅰテモテ2章2節(新共同訳聖書)