前回は「高い地位にある人のための祈り」について教えられました。私たちが、高い地位にある人のために祈るべき理由は、主に三つありました。第一に、「私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすため(2)」。第二に、そうすることは「私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれること(3)」だから。第三に、保たれた秩序(平和)の中で「すべての人が救われて、真理を知るようになる(4)」ためです。この目的を忘れてはいけません。クリスチャンは、政治活動に忙しくしたり、革命をおこしたりするより(そうすることも必要な時もありますが)、まず「祈る」べきです。為政者が、その権威と影響力を正しく用い、平和の内に、一人でも多くの方が救われ、教会がたて上げられ、神の国が前進して行くために。
今日のタイトルは「モーセのとりなし」です。ある意味、前回の祈りも「高い地位にある人々のための、とりなしの祈り」です。私たちは、自分のためにも祈りますが、その多くの時間をとりなしの祈りに割きます。不思議なことに、とりなしの祈りは、祈れば祈るほど楽しくなってきます。そこで今回から数回にわたり、とりなしの祈りについて学びたいと思います。まず取り上げたいのは、モーセのとりなしの祈りです。◆今日の箇所は、イスラエルの民の、こんな叫びで始まっています。「さあ私たちに先立っていく神を造ってください(1)。」彼らはシナイ山に登ったまま、なかなか帰ってこないモーセを待ち切れず、自分たちを安心させ、手っ取り早い礼拝をささげられる偶像を造ってくださいと、アロンに頼んだのです。別な言い方をすれば、自分たちを誰よりも愛し、エジプトの国から救い出し、紅海を分け、雲と火の柱をもって導かれた偉大な神様を、いとも簡単に、ちっぽけな、似ても似つかない姿、すなわち偶像にしてしまったのです。
今日のタイトルは「モーセのとりなし」です。ある意味、前回の祈りも「高い地位にある人々のための、とりなしの祈り」です。私たちは、自分のためにも祈りますが、その多くの時間をとりなしの祈りに割きます。不思議なことに、とりなしの祈りは、祈れば祈るほど楽しくなってきます。そこで今回から数回にわたり、とりなしの祈りについて学びたいと思います。まず取り上げたいのは、モーセのとりなしの祈りです。◆今日の箇所は、イスラエルの民の、こんな叫びで始まっています。「さあ私たちに先立っていく神を造ってください(1)。」彼らはシナイ山に登ったまま、なかなか帰ってこないモーセを待ち切れず、自分たちを安心させ、手っ取り早い礼拝をささげられる偶像を造ってくださいと、アロンに頼んだのです。別な言い方をすれば、自分たちを誰よりも愛し、エジプトの国から救い出し、紅海を分け、雲と火の柱をもって導かれた偉大な神様を、いとも簡単に、ちっぽけな、似ても似つかない姿、すなわち偶像にしてしまったのです。
それは大きな罪でした。モーセの十戒の第二戒にはこうあります。「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。(出エジプト20章4節)」第一戒が「他の神々があってはらない」とあるのに対し、この第2戒は「真の神様であっても、像に刻んではいけない」という意味です。まだ伝えられる前でしたが、この十戒を犯した結果は甚大でした。なんと、その像礼拝の罪のために、3000人が打たれたのです。◆ある人は言うかもしれません。「あまりにも残酷すぎるではないか!?」でも罪の恐ろしさと、その罪に伴う結果が、どれ程大きいかを知らなければ、本当の意味での「とりなしの祈り」も捧げられないのではないでしょうか?ジョン・ホワイトはこう言いました。「神様の見方で罪を見つめるまでは、とりなしの祈りの緊急性を体験することはできません」。どれほど多くの人々が、安易に罪を犯し、滅びに向かっていることでしょうか!私たちはその緊急性を理解し、モーセのように神の前に出なければいけません。
とりなしの祈りは、いのちがけの祈りです。モーセはこう祈りました。「あなたの燃える怒りをおさめ、あなたの民への災いを思いなおして下さい(12)」「今もし彼らの罪をお赦しくだされるものなら…。しかし、もしもかないませんなら、どうかあなたがお書きになったあなたの書物から私の名を消し去ってください(32)」。考えてみれば、驚きです。とりなしている相手は、都合が悪くなれば、すぐに不平を鳴らし、「エジプトに帰りたい」と困らせるイスラエルの民です。今回の件でも、言ってみれば彼らの自業自得です。でもモーセは、そんな彼らのために、自分が見捨てられ、陰府(よみ)に下ってもいいというのです。◆まさに十字架を体現する祈りです。イエス様は、私たちを救うために、十字架にかかり、父なる神に見捨てられ、陰府に下られました。とりなしの祈りは、他人の罪の贖いのために祈ることです。また贖いは、自らを犠牲にして、他人の負い目(罪の代償)を、代わりに支払う事です。もちろん、贖いは、キリストの十字架によって完成しました。しかし、その恵みによって救われた者として、私たちもキリストともに「父よ彼らをお赦しください」と真剣に祈り続けるのです。これが、本来のとりなしの祈りです。「あの人が罪を犯しました。神様何とかしてください~」という他人事のような祈りではありません。
パリサイ人のように「彼ら(罪人)のようでないことを感謝します(ルカ18:11-12)」という祈りや信仰の態度は言語道断です。でも私たちはモーセのように、友人知人、家族、そして同胞の日本人のために真剣に祈っているでしょうか?私たちが救われたのは、ある意味、このとりなしの祈りを捧げるためです。
■ 出エジプト32章32節
「今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら──。
しかし、もしも、かないませんなら、
どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、
私の名を消し去ってください。」
■ ローマ9章3節
もしできることなら、パリサイ人のように「彼ら(罪人)のようでないことを感謝します(ルカ18:11-12)」という祈りや信仰の態度は言語道断です。でも私たちはモーセのように、友人知人、家族、そして同胞の日本人のために真剣に祈っているでしょうか?私たちが救われたのは、ある意味、このとりなしの祈りを捧げるためです。
■ 出エジプト32章32節
「今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら──。
しかし、もしも、かないませんなら、
どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、
私の名を消し去ってください。」
■ ローマ9章3節
私の同胞、肉による同国人のために、
この私がキリストから引き離されて、
のろわれた者となることさえ願いたいのです。