祈り その5 「成し遂げる祈り」 ピリピ2章12-18節

「何にもしないでも一日、何かしていても一日」というのは、どこかで聞いたフレーズ。一日24時間は、誰もが平等に与えられていますが、それをどのように使うかは人によって様々です。何もしないことが、悪いわけではありません。心の健康を保つためにも、ずっと張りつめたままではなくて、時には「あえて何もしない日をつくる」というのも大切なのかもしれません。◆しかし、長い目で見た時、人生に何の目的意識も持たず、ダラダラ、方向性のない毎日を送るのはいかがなものでしょうか?人生は、長いようで、短くもあります。何もしないまま「ただ生きて、働いて、食べて、寝て…」で終わってしまうことも出来てしまうのです。そうならないために…。

今日の箇所には「自分の救いの達成に努めなさい(12)」とあります。聞き方によっては、誤解を生む言葉です。聖書には「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です(エペソ2章8節)。」とはっきり書いてあるではないですか。なのに、なぜ、「自分の救いを達成しなさい」と、私たちの側の努力について言及されているのでしょう?しかもこの言葉は、命令法に近い強い言葉で書かれています。

ある書にはこう説明されていました。「これは救いの持つダイナミズムに関することです。すでに受けた救いを、人生の中で『実践』し、たゆまず聖化(キリストに似た者とされる)を目指して生きなさいという意味です。」この点についてパウロはこうとも言っています。「私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです(Ⅰコリント9:27)。」つまり救われるために何か努力をするのではなくて、一方的な恵みによって救われた者として、最後まで主に従い通すことです。

そういう信仰をもった人に、主は特別なビジョン(志)を与えて下さいます。志とは、別な言い方をすれば、それぞれの時代と国において「自分の果たすべき役割」「あなたにしか果たせない特別な使命」とも言えるでしょう。それは、従う心構えのない人には与えられません。困難も伴うからです。しかし本気で御心を祈り求め、それに従いたい、神様と一緒にワクワクするような信仰の世界を冒険したい、と思っている人には、その「志」が与えられるのです。あなたはそのような、人生を通して果たしたいと思える「志」を持って生きていますか?(この直前に書かれているように、イエス様は、この地上の生涯で、十字架の救いを成し遂げるという志を持ち、最後まで従い通しました。「そうわけですから(12)」)

お正月、子供に特別なことをしてあげられず申し訳なく思っていました。そんな中「ロード・オブ・ザ・リング(指輪物語)」の三部作を見せました。子供たちは「こわい~」と言いながらも、最後まで夢中になって見ました。最後に感想を分かち合ったのですが、小学4年生の娘の言葉にハッとしました。妻が聞きました「どこが良かった?」娘が答えました「それぞれが自分の役割を果たしたことが良かった。」

志を妨げるのは何でしょうか?「つぶやき」と「疑い」です(14)。建設的な意見には耳を貸さなければいけません。しかし御心を求めず、ただ批判したり否定的な言葉を投げかけたりするのは問題です。そういう言葉は、群れの方向性を失わせ、分裂や争など混乱を引き起こします。時には自分の中からも「否定的な思い」が湧き上がってくることもあるでしょう。そんな時大切なのは、それでも「疑わずに行い続けること」です。あなたが信じ、全力を注いだことは、たとえ望むような結果に終わらなくても「決して無駄にはなりません (16)!」

大切なのは、結果ではなく、プロセス(過程)です。その中で私たちは、目には見えませんが「愛・喜び・平安…誠実・柔和・自制」といった御霊の実を結び、以前とはまったく違う、新しい人に創り変えられているのです。途中には「注ぎの供え物」となるような苦しみもあるでしょう。しかしパウロは。それさえも「喜びます」また「あなた方も同じように喜んでください。私と一緒に喜んでください」と言っています。なぜなら、その先には「良くやった」という主からの「称賛」と「永遠のいのち」が待っているからです。「志」を与えてくださった方は「成し遂げる力」も与えてくださいます。だから疑わずに、コツコツと従っていきたいと思います。まずは、この時代、この国に生きる、あなたにしかできない「志」と「神の国で果たすべき役割」が見つかるように、祈り求めましょう。



神は、みこころのままに、
あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、
事を行わせてくださるのです。
すべてのことを、
つぶやかず、
疑わずに行いなさい。

ピリピ2章13,14節