祈り その7 「立ち止まる時、旅立つ時」 民数記9章15-23節

人生は決断の連続です。Aという道か、Bという道か。立ち止まるべきか、旅立つべきか。その判断一つで、その後の歩みが全然違ってくるかもしれません。一度きりの選択で、全てが決まってしまうわけではありません。でも「賢い選択」は大切です。それによって不用意な回り道を避け、避けられる試練から回避するためです。

人生には「立ち止まるべき時」があります。どんなに目の前の門が大きく開かれていても、人間的に見て条件が良く思えても、そちらに進んではいけないことがあります。また良く話すことですが、「Better(人間的によい方)を選んで、Best(神様が与えようとしておられる最高の祝福)を逃す」ということもあります。聖書の中の人物たちも、常にそのような選択に迫られていました。

例えばパウロは、良く祈って計画を練ったのでしょうが、「御霊に禁じられて」二度も立て続けに行く手を阻まれ、急な計画変更を強いられました(使16:6-7)。またモーセは、自分の熱心さによってヘブル(イスラエル)人を救おうとしましたが、うまくいかず、ミデヤンの荒野に、結局40年間も退かなければいけませんでした(創2章)。もしも、彼らがそれでも自分の考えに固執し、強引に事を進めたのであったら、後の祝福もなかったでしょう。

また人生には「旅立つ時」があります。この場合は、先の場合とはまったく逆です。人間的には、全くうまくいくとは思えないのです。まだ準備も整っておらず、自分や仲間の力も不足していて、その前にやらなければいけないことも、たくさんあるのです。それなのに、どうして「今」なのか、さっぱりわかりません。多数決で決めようものなら、即座に否決されてしまう状況です。しかし、その時こそが、まさに「主の時」であることもあるのです。

主がアブラハムに「あなたはあなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい(創12:1)」と言われた時、状況はすべて整っていたでしょうか?新約聖書にはこうあります。「信仰によって、アブラハムは、相続財産として、受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。(ヘブル11:8)」

私たちはいったいどのように判断したらよいのでしょうか?今日の箇所にはこうあります。「雲が天幕を離れて上ると、すぐその後で、イスラエル人はいつも旅立った。そして、雲がとどまるその場所で、イスラエル人は宿営していた。主の命令によって、イスラエル人は旅立ち、主の命令によって宿営した。(民9:17-18)」今日私たちがみこころを判断する三つの要素があります。①個人的な祈りの中で得られる「平安」②神様から集中的に与えられる「みことば」③教会を通して与えられる「アドバイス」。この三要素が揃う時、神様からのGOサインが出ていると判断しても良いでしょう。

また「雲」は「主の臨在」の象徴です。判断を間違えてしまうことや、みこころを待てずに進まなければいけなかったこともあるかもしれません。だから、もう祝福を受けられないのではありません。それでも主から離れず、主とともに、主の臨在の中を歩み続ける時「全ては益と変えられていく」のです!聖書にこうあります「神を愛する人々、すなわち神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています。(ロマ8:28)」

二日でも、一月でも、あるいは一年でも、
雲が幕屋の上にとどまって去らなければ、
イスラエル人は宿営して旅立たなかった。
ただ雲が上ったときだけ旅立った。 

彼らは主の命令によって宿営し、
主の命令によって旅立った。
彼らはモーセを通して示された
主の命令によって、主の戒めを守った。
民救記9章22-23節