祈り その8 「行って実を結び」 ヨハネ福音書15章9-17節

今、教会では、「受難節」と言って、特別にイエス様の十字架を覚える期間を過ごしています。それにちなんで、今日読んだ箇所は、イエス様が十字架を前にして語られた「告別説教(ヨハネ13~17章)」の中間に記されている言葉です。イエス様は十字架にかかり、この世を去られる前に、いったい私たちに、どのような言葉を遺して下さったのでしょうか?

「わたしの愛にとどまりなさい(9)」これが、イエス様の弟子たちに対する遺言でした。その直前には「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。私の愛に留まりなさい」ともあります。聖書の神様は、おひとりですが(申命記6:4)、孤独の神ではありません。父・子・聖霊の「三位一体」の神様です。父なる神様は、ひとり子イエスを愛しておられました。イエス様はその愛を十分に受け、その大きな愛で私たちを愛してくださったのです。◆イエス様は、別の箇所で、こうともおっしゃっています。「父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。…そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。(17:21)」つまりイエス様を通して、父なる神様の大きな愛を知った私たちが、その愛に留まり、互いに愛し合うことを、主は望んでおられるのです。そうすることによって、イエス様がこの地上から去られた後も、その愛し合う姿を見て、イエス様を見たことのない人々が、(間接的に)見るためです。

イエス様は、どれほど私たちを愛してくださったのでしょうか。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。(13)」とイエス様は表現されました。この中に、驚くべきことが二つ記されています。一つは、神のひとり子であるイエス様が、弟子たちをはじめ、私たちのことを「友」と呼んでおられること。もう一つは、そのイエス様が、その友のために「いのちを捨て」てくださると言うこと。私たちが何か良いことをしたからではありません。ただ一方的な選びによって(16)、私たちは神の友とされ、十字架の恵みに預かっているのです。◆また「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です(14)」とも言われていますが、これは「わたしの言うことを聞いたら友になってあげる」という意味ではありません。イエス様は友として、父なる神様から聞いたことを、みな私たちに知らせて下さいました(15)。あとは私たちがイエス様の友として、聖書を読んで、イエス様がどうしたら一番喜ぶのかを考え、自らすすんで行動する者となるという意味です。真の友情とは、そういうものではありませんか?

しかも個人的にその愛にとどまれば良いのではありません。イエス様はこう語られました。「それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり…(16a)」。「実」とは何のことでしょうか?「愛、喜び、平安」といった「御霊の実」のことでしょうか?イエス様を信じる人々(宣教の実)のことでしょうか?どちらも考えられますが、文脈を見ると、全体からして「互いに愛し合う関係そのもの」だと分かります。しかも、単なる人情的な繋がりではなくて、「わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合う(12)」「イエス様の十字架の愛に基づく共同体」のことなのです。◆そうすると「あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです(16b)」とは、「何でも願いがかなうよ」という意味ではなくて、「本気で、この戒めに生きる共同体を建て上げるために『父に求める者は何でも』」という意味になります。その共同体こそ「教会」です。イエス様が天に帰られた後も、主の弟子(クリスチャン)たちが戒めを守り、互いに愛し合う「キリストのからだ(教会)」という実を結び、広がっていくことを、主は願われたのです。



あなたがたがわたしを選んだのではありません。
わたしがあなたがたを選び、
あなたがたを任命したのです。
それは、あなたがたが行って実を結び、
そのあなたがたの実が残るためであり、
また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、
父があなたがたにお与えになるためです。
ヨハネ福音書15章16節