祈り その9 「わたしは渇く」 ヨハネ19章28‐29節

教会では、受難週の祈祷会に「イエスの十字架上の7言」を順番に学んでいます。すでに、2008年、2009年、2011年、2012年と学び、今年はその5回目です。イエス様は十字架の上で、第5言として「わたしは渇く」とおっしゃられました。いったいそれはどういう意味でしょうか?

この言葉の直前には「聖書が成就するために…と言われた」とあります(28)」。その聖書とは旧約聖書のことで、二つあげられます。一つは「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」で始まる受難預言の詩篇22篇の5節「私の力は、土器のかけらのように、かわききり、私の舌は、上あごにくっついています。あなたは私を死のちりの上に置かれます」です。もう一つは詩篇69篇21節「彼らは私の食物の代わりに、苦味を与え、私が渇いたときには酢を飲ませました」です。これらは二つとも、イエス様が十字架上で味わわれた究極の「苦しみ」を表しています。

一つ前の第4言は「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」日本語に訳すと「わが神、わが神、どうしたわたしをお見捨てになったのですか(マタイ27:46)」でした。ある人は「ホラ見ろ!やっぱりイエスは、神でも、そのひとり子でもなかった」と鬼の首を取ったように言います。でもそれは誤解です。実際は、本当に三位一体の神であり、父なる神と一つだったからこそ、人間の罪を背負い、父なる神と引きちぎられた時、肉体的かつ霊的な苦しみを味わわれたのです。「わが神、わが神…」と「わたしは渇く」の二言は、霊的に死んだ(神と断絶された)私たちが、裁きの座で叫ぶべき言葉だったのです。

イエス様は、その苦しみの中でも、「父なる神様(アバ父)」を愛し、求め続けていました。詩篇42篇1-2節にこうあります。「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています…。」直後の3節には「人が一日中『おまえの神はどこにいるのか』と私に言う間」ともありますが、イエス様はまさに、そのような状況に置かれていました。

弟子には裏切られ、ローマ兵にムチ打たれ、ツバキをかけられ、群衆には「もし神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い(マタイ27:40)」と言われ放題でした。まさに「お前の神はどこにいるのか」と罵られていたのです。でもイエス様は、そのような状況の中で、なおも父なる神を求め続け、最善を行ってくださる方に信頼し続け、「渇き続けていた」のです。これこそ、本当の信仰なのではないでしょうか?順境の時だけではなく、逆境の時も主を求めつづけるのです。

あなたは「渇いて」いるでしょうか?幸せの中で、満腹し、飢え渇きを失っていないでしょうか?平凡とした毎日の中で、神様に叫ぶことを忘れてしまってはいないでしょうか?また試練の中で、神様への信頼を失いかけていないでしょうか?どうか私たちが、あらゆる状況の中でも、たとえ幸福の中でも、試練の中でも、まことの神に対する飢え渇きを失ってしまうことがありませんように。イエス様は、十字架の上でも、父なる神を求め「わたしは渇く」と叫ばれました。そして、3日目に死の力を打ち破り、天に昇り、私たちに聖霊(助け主)を送って下さったのです。

その聖霊について、イエス様はこうおっしゃられました。「『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである(ヨハネ3:37-39)」。本当の渇きを知っておられるイエス様は、私たちの霊的な渇きを知り、癒すことが出来るのです。私たちはこの方に渇き続け、復活の主から「いのちの水」を受け取りたいと思います。


この後、イエスは、
すべてのことが完了したのを知って、
聖書が成就するために
「わたしは渇く」と言われた。
ヨハネ19章28節

「だれでも渇いているなら、
わたしのもとに来て飲みなさい。
わたしを信じる者は、
聖書が言っているとおりに、
その人の心の奥底から、
生ける水の川が流れ出るようになる。」
これは、イエスを信じる者が後になってから受ける
御霊のことを言われたのである。
ヨハネ3章37-39節