前回は「ハンナの注ぎ出す祈り」について学びました。その結果サムエルが生まれました。ハンナは、乳離れするまで、自分の手元でサムエルを育て、乳離れすると、誓った通り、祭司エリのもとに連れて来ました。その際こう言いました。「おお祭司様…私はかつて、このあなたのそばに立って主に祈った女でございます。この子のために、私は祈ったのです。主は私がお願いした通り、私の願いをかなえてくださいました。それで私も、この子を主にお渡しいたします。この子は一生涯、主に渡されたものです。(1:26-28)」またこう言って主を賛美しました。「主のように聖なる方はありません。あなたに並ぶ者はないからです。私たちの神のような岩はありません。(2:1-10)」。このようして、祭司エリのもとで、神に仕える、サムエルの生活が始まったのです。
しかしその環境は、決して恵まれたものではありませんでした。祭司エリには、二人の息子がいました。名前をホフニとピネハスと言います。彼らは、主を恐れず、主の目の前に悪を行っていました。人々が持ってきたささげ物を奪い取り(2:16)、主の宮で仕える女たちと寝ていました(2:22)。「子たちの罪は、主の前に非常に大きかった(2:17)」と聖書にはあります。しかも、祭司エリは、いちおうは注意するものの、子どもたちを正しく教育し、訓戒することができませんでした。主は祭司エリにこう言われました。「なぜあなたは、わたしよりも自分の息子たちを重んじて、私の民イスラエルのすべてのささげ物のうち最上の部分で自分たちを肥やそうとするのか(2:29)。」そして主は、二人の息子の死と、エリの家に降りかかる災いについて預言されるのでした。
まさに風前のともしびです。主の祝福が、エリの家から去り、イスラエルからも消えてしまいそうでした。その頃「主の言葉は稀にしかなく、幻も示されなかった(3:1)」「エリの目はかすんで、見えなくなっていた(3:2)」とありますが、これはエリの肉体の衰えだけでなく、霊性の衰えも意味していました。でも希望がなくなったわけではありません。「神のともしびは、まだ消えていず、サムエルは、神の箱の安置されている主の宮で寝ていた(3:3)」とある通り、サムエルこそイスラエルに残された希望でした。彼は「神の箱」の安置されている神殿で寝ていましたが、このことは、祭司エリとは対照的に、サムエルが主との深い交わりにあったことを意味しています。
そんな時、主の語りかけがサムエルにありました。それまで、そのような体験はなかったので、サムエルはてっきり祭司エリに呼ばれたのかと思い「はい、ここにおります。私をお呼びになったので」と言うのでした、しかしエリは「私は呼ばない、帰っておやすみ」と答えました。そんなことが三度繰り返されえてから、エリはようやくそれが主からの語りかけであることに気づきました(この霊的感性の鈍さ!)。そしてこうアドバイスします。「行って、おやすみ。今度呼ばれたら、『主よ。お話しください。しもべは聞いております』と申し上げなさい。(3:9)」再び語りかけがあった時、サムエルが教えられた通り答えると、主は語られました。その内容は、先に語られた通り、祭司エリの家にふりかかる災いについてでした。ホフニとピネハスの罪はもちろん、エリ自身も「(彼らの悪事を)知りながら(適切に)戒めなかった」と責任を問われています。
今日の箇所から三つのことを教えられます。①一番目は、どんなに状況が悪くても、「私たちが主に繋がっている限り(祈ることをやめない限り)ともしびは消えていない」ということです。主は必ず(私たちの気づかないところで)必要な人を立て、必要なものを備えて下さいます!②二番目は、上に立てられた人に、忠実に仕えることです。「はい、ここにおります」とサムエルは、いつもエリに対して返事していました。だから神様に対しても、いざという時、そう言えたのです。③主に「聞く」祈りの姿勢です「お話しください。しもべは聞いております」いつもそう祈って、メッセージを聞き、聖書を開きたいものです。主に聞くことは、信仰においての基本です。