「ハンナ 注ぎ出す祈り」Ⅰサムエル1章1-18節

私たちは、主の祈りの中で「主の御名をあがめ」「神の国を第一に求め」「みこころがなるように」と祈ることを教えられました。しかし、それは自分の感情を押し殺し「正し祈り方でしか」祈ってはいけないということを言っているのではありません。私たちは、生身の人間ですから、嬉しいこともあれば、悲しいこともあります。そんな私たちが、等身大の自分で神様の前に出て、心を注ぎ出して祈る中で、変えられていく様子を、ハンナを通して教えられたいと思います。

ハンナには苦しみがありました。それは子供が与えられないという苦しみでした。当時の女性にしてみれば、これは今日とは比べものにならない程、大きな悩みだったことでしょう。しかも夫のエルカナにはもう一人の妻がおり、その女(ペニンナ)にはたくさんの子供がいたのです!それだけでも十分辛いのですが、なんとペニンナは、ハンナを軽んじ、挑発するかのように、何かにつけて嫌がらせをしてきました(6)。夫のエルカナは、それでもハンナを特別に愛していました(5,8)。でも、愛されれば愛されるほど、子を産むという形でその愛に答えられない自分を余計に心苦しく思い、悔しくて、悲しくて、彼女の心は、今にも壊れてしまいそうになっていました。

そんな中、彼女は悲しみをすべて神様のところに持って行きました。彼女は食事が終わると、すぐに宮(礼拝堂)に走っていき、そこで激しく泣きながら祈ったのです。「万軍の主よ。もしあなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主にお捧げします(11)」。いっけん、神様と取引しているようにも聞こえますが、彼女のそのつもりはなかったことでしょう。むしろ胸のうちを吐露(とろ)し、一心不乱に祈る中で、導かれ、あふれ出てきた、珠玉の祈りであったのでしょう。(この後を読む時、ハンナはその祈りを実行しています。決していい加減な気持ちからではなかった)

試練の中で、私たちは祈りに導かれます。ハンナは、もちろん普段から祈っていましたが、試練を通して、更に深く、切実に祈る者へと変えられたのです。そして、その祈りの中で、祈りが変えられ、彼女自身も変えられていきました。祈り終わり、祭司エリから「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように(17)」とのお言葉をいただいた時、「彼女の顔は、もはや以前のようではなかった(18)」とあります。印象的な言葉です。状況は何も変わっていませんでした。しかし彼女自身が、「全能なる主が、必ず一番良い時に、一番良いことを行ってくださると信じ」、「このお方に全てをゆだねる者」へと変えられたのです。

あなたの祈りは、主の前に出て、心を注ぎ出す祈りをささげているでしょうか?クリスチャンになってからも、試練はなくなりません。しかし聖書の中には、このように書かれています。すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。ヘブル1211節」試練は、「祈りの学校」のようなものです。試練の時にこそ、私たちは、切実に、心を注ぎ出して祈る者へと変えられるのです。そして、その中で私たち霊的に整えられ、新たな神様との「出会い」を経験するのです。その時、私たちの顔も、もはや以前のようではなくなっていることでしょう。


以前も学びましたが「人は試練の時、どう祈るか」の著者ジョン・ホワイトはこうっています。「あなたが成熟していくと、神様の御旨、ご目的、名誉といったものへの関心が増してゆきます。とはいっても、どんなに成熟しても自分自身の嘆きや喜びを感じなくなるようなことはありません。…あなたの悲しみや、心の痛みについて神様に訴えることを決してやめてはいけないのです(p99)」。成熟した祈りとは、御心を求めながらも、自分の正直な気持ちを「主に」告白することなのです。