前回から今回までのあらすじ: 王になったサウルは初めから躓いてしまいました。ペリシテの大軍勢との戦いの時、ただでさえ少ないサウルの部下は、散り散りに逃げて行ってしまいました。焦ったサウルは、民の心をつなぎとめておくために、自分の手によって全焼のいけにえを捧げてしまいました。つまりパフォーマンスのために、いけにえを捧げるという、祭司にしか許されていない、神聖な行為を利用してしまったのです。そうして彼は「私が来るまで待ちなさい」と言われた、サムエルとの約束を破ってしまいました。この一件でサウルは祝福を失ってしまいました。
今日の場面は、アマレクとの戦いです。主は、サムエルを通して、サウルにこう言われました。「主は私を遣わして、あなたに油をそそぎ、その民イスラエルの王とされた。今主の言われることを聞きなさい。…行ってアマレクを打ち、そのすべてのものを聖絶せよ。容赦してはならない。男も女も、子どもも乳飲み子も、牛も羊も、らくだもロバも殺せ。(1〜3)」◆ちょっと残酷で理解を超えていますが、このような箇所を読む時は、私たちは二つのことを理解しながら読まなければいけません。一つ、当時のイスラエルは、まったくの異教(異邦人)の地に入って行ったのであり、それぐらい徹底していなければ信仰を守れなかったし、後の世代に継承もできなかったということ。もう一つは、現代の私たちが「聖絶」について読む時、それを字義通りに読むのではなくて、心の中の罪との戦いに置き換えて読む、ということです。
サウルは、神様から聖絶を命じられたのに、従うことができませんでした。聖書にはこうあります。「しかしサウルと彼の民は、アガグ(王)と、それに肥えた羊や牛の最も良いもの、子羊とすべての最も良いものを惜しみ、これらを聖絶するのを好まず、ただ、つまらない、値打ちのないものだけを聖絶した。(9)」しかも、そのことをサムエルに指摘されると、彼は言い訳を始めました。「主の祝福がありますように。私は主のことばを守りました。(13)」でもサムエルも負けていません。「では、あの羊の声、牛の声は、いったい何ですか。(14)」◆それでも、サウルは言い訳を続けます。「(私は従ったけれど)民は羊と牛の最も良いものを惜しんだのです。あなたの神、主にいけにえをささげるためです。(15)」彼はまず「民が惜しんだからだ」と「民」のせいにしました。でも9節には「サウルと彼の民は…惜しみ」とはっきり記されています。また彼は「主に、いけにえを捧げるため」とも言い訳しましたが、自分の不従順を棚に上げ、「それも神様を喜ばせるためです」と言わんばかりです。
私たちも似たようなことを言っていないでしょうか?好き勝手に、時間もお金を使っておいて、神様には惜しんで『つまらない、値打のないもの』を捧げてしまうことはないでしょうか?自己中心な思いで決めたのに、取ってつけたように「これも神様のためなのです」と言い訳をしていないでしょうか?◆サムエルはサウルに言いました。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。(22〜23)」私たちは、いつも主に最善をお捧げする真の礼拝者となることができますように。