前回から今回までのあらすじ: アマレクとの戦いにおいて、主はサウルに「聖絶」を命じられました。しかしサウルは、従いませんでした。聖書には「サウルと彼の民は、アガグ(王)と、それに肥えた羊や牛の最も良いもの、子羊とすべての最も良いものを惜しみ、これらを聖絶するのを好まず、ただ、つまらない、値打ちのないものだけを聖絶した。(9)」しかも、そのことをサムエルに指摘されると、彼は言い訳しました。「(私は従ったけれど)民は羊と牛の最も良いものを惜しんだのです。あなたの神、主にいけにえをささげるためです。(15)」彼は「民」のせいにし、自分の不従順を棚に上げ「神様を喜ばせるため」と言ったのです。
今日の場面は「新しい王の選び」についてです。主は、サムエルに仰せられました。「いつまであなたはサウルのことで悲しんでいるのか。わたしは彼をイスラエルの王位から退けている。角に油を満たして行け。あなたをベツレヘム人エッサイのところへ遣わす。わたしは彼の息子たちの中に、わたしのために、王を見つけたから。(1)」サムエルは、サウルを嫌っていたわけではありません。サムエルは、主の御心を求め、確信し、期待し、油を注いだ(王と任命した)からこそ、そのサウルが主から離れてしまったので悲しんでいたのです。◆私たちはここから、ひとつのことを教えられます。それは、いつまでも「悲しみ」に浸っていてはいけないということです。自分の思い通りにならないことや、願いとは違う方向に事態が進んでしまうことがあります。しかし、私たちは、いつまでもそのことばかりに囚われて、悲しみ、立ちすくんでいてはいけないのです。主は「あなたはいつまで○○のことで悲しんでいるのか?さぁ、立ち上がって、次の目標に向かって力強く進みなさい」と言われます!
一番大切なのは、主の御心に従うことです。サムエルは最初「私はどうして行けましょう。サウルが聞いたら、私を殺すでしょう」と躊躇しました。無理もありません。現役の王がいるのに、他の人に油を注ぐとは、クーデターを起こすようなものです。殺されてもおかしくはありません。しかし神様は彼に言いました。「あなたのなすべきことを、このわたしが教えよう。あなたはわたしのために、わたしが言う人に油をそそげ(王として任命せよ)。(3)」そしてサムエルは、その主のみこころに、命がけで従ったのです。◆サウルは違いました。彼は、民の心が自分から離れていくことを恐れ、「自分の手でいけにえを捧げてしまう」ような人でした。また前回の箇所でも、聖絶せよとの神様の御心よりも、「それを惜しい」と思う自分の心の方が勝ってしまいました。彼はそうやって、いつも「人の心」を優先していたのです。しかしサムエルは、そういった「自分の気分や心」を脇に置いて、主の御心を優先したのです。
エッサイの家で油を注ぐときのことです。サムエルは、最初、長男エリアブを見て「確かに、 主の前で油をそそがれる者だ」と思いました。しかし主はサムエルに仰せらました。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。(7)」同じことが七回繰り返されて、最後の最後に、末っ子で、羊を飼っていたダビデが連れてこられました。◆「自分の悟り」が強すぎると、主の御心が見えなくなります。恐れや、自分の理想や、見た目の美しさに振り回されて、時には固執して、自分中心に判断しようとしているのです。自分としては、注意深く判断しているつもりでも、損得勘定をしているだけで、「主の御心」という視点がスッポリ抜け落ちています。そうした結果、私たちは、一瞬にして、時には少しずつ、主の祝福を失っていくのです。あなたは、うわべを見て判断しようとしていませんか?主の御心を求めていますか?