前回は「主よお語り下さい」と題して、少年サムエルの信仰から学びました。その際、私たちは祭司エリの息子たち(ホフニとピネハス)の悪事についても読みました。それは決して彼らだけの問題ではなく、父親であり祭司であるエリの責任でもありました。聖書にはこうありました。「なぜあなたは、わたしよりも自分の息子たちを重んじて、私の民イスラエルのすべてのささげ物のうち最上の部分で自分たちを肥やそうとするのか(2:29)。」「(エリは彼らの悪事を)知りながら戒めなかった(3:13)」そのような状況の中、サムエルが授かった初めての預言は、師であり育ての親であるエリ一家にふりかかる災いについてでした。そして預言の通り、ホフニとピネハスは間もなく死に(4:11)、その知らせを聞いたエリも席から落ち、首の骨を折って死んでしまいました(17)。
8章の冒頭では、そのサムエルの息子たちについて記されています。祭司エリを反面教師として、サムエルは子供たちをちゃんと育てたのかと思いきや、そうではありませんでした。聖書にはこうあります。「この息子たちは父の道に歩まず、利得を追い求め、わいろを取り、さばきを曲げていた。(8:3)」サムエルの息子たち(ヨエルとアビヤ)も、主の道を歩みませんでした。そこで、イスラエルの長老たちはみな集まり、サムエルのところに来てこう訴えました。「今や、あなたはお年を召され、あなたのご子息たちは、あなたの道を歩みません。どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください(5)」その訴えは、サムエルを不快にしました。
どうしてイスラエルの民は、王を欲しがったのでしょうか?彼らはこう言っています。「いや。どうしても、私たちの上には王がいなくてはなりません。私たちも、ほかのすべての国民のようになり、私たちの王が私たちをさばき、王が私たちの先に立って出陣し、私たちの戦いを戦ってくれるでしょう。(19-20)」実際、王を持つというのは大変なことです。王は戦争のために自分たちの子どもたちをとり、税を集め、時には重労働を課します(11-12)。しかし、そういうところにはまだ気付いていなかったのか、彼らはうらやましく思っていたのかもしれません。周りの国々には王がいて、導いてくれることを…。確かに、サムエルが「さばきつかさ(8:1)」に立てた二人の息子の体たらくぶりは既に述べたところです。とはいえ、神に選ばれ、特別に愛され、契約に預かっている民が、普通の民をうらやましく思い、彼らのようになりたいとは、何とも残念な話しです。
しかし、私たちも知らないうちに同じことをしているのかもしれません。まことの神様を知りながら、そうでない人々のことをうらやましく思い、彼らのようになりたいと思っていることが。今の自分がうまくいっていないのは、神様に問題があるのではなく、むしろ神様に従っていない自分に問題があるのです。それなのに自分のことは棚に上げて、あたかも神様に原因があるように思い、他のものを求め、頼ろうとするのです。そんな私たちを、一番悲しまれているのは神様なのです。
そんな彼らに、神様はこう言われました。「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから。(7)」こう言うことによって神様は、イエスラエルの民が、ただ単に王を求めてサムエルを退けたのではなく、サムエルを通して語られている神様ご自身を退けたことを明らかにしておられるのです。神様は彼らの要求をのまれました。あたかも放蕩息子のお父さんが、その要求をのまれたように。
私たちは何に従って歩んでいるでしょうか?神様ご自身に聞くことよりも、もっと分かりやすい方法を求めていないでしょうか?教会はどうでしょうか?もっと力強いカリスマ牧師や、有能な信徒がいたら成長できると思っていないでしょうか?また神の子とされた恵みを忘れて「もっと周りの人々と同じように、普通になりたい」と思っていることはないでしょうか?どうか私たちの歩みが、これからも神様を中心として、この方に聞いて、歩んでいくことが出来ますように。