「しかしサウルは黙っていた」Ⅰサムエル10章

前回は「サムエルとサウルの対面」と題して学びました。彼は色々な方法で「王」へと導かれました。①まず問題を通して導かれました。雌ロバがいなくなった時、お父さんの「雌ろばを捜しに行ってくれ(3)とのお願いに、従順に従ったからこそ運命が動き始めました。②続いて色々な人を通して導かれました。引き返そうとするサウルに、同行した若者は「待ってください(6)」と言い、水汲み場の娘たちは「今、急いでください (12)」と言いました。そういった周りの声に謙遜に聞いたからサムエルに会うことが出来ました。③そして預言(御言葉)によって導かれました。「主は、サウルが来る前の日に、サムエルの耳を開いて(直訳:耳を裸にして)仰せられた(15)」とあります。私たちも御言葉に、耳を裸にしてよく聞くことによって、御心へと導かれるのです。

今日は、サムエルに会ったサウルの身の上に、何が起こったのかを一緒に見て行きましょう。

1.サウルは新しい人に作り変えられました。サムエルは同行していた若者を先に行かせて(9:27)、サウルと二人きりになり、頭に油を注ぎました(10:1)。この油を注ぐという行為は、二つのことを意味しています。一つは、神の霊が注がれるということ、もう一つは、神様によって王に任じられたということです。単なる儀式ではなく、実際に彼の上には、主の霊が激しく下りました。そして彼は、新しい人に変えられ(6)、預言しはじめたのです(10)。主は彼に言われました。「このしるしがあなたに起こったら、手当たりしだいに何でもしなさい。神があなたとともにおられるからです(7)。」◆私たちも主イエスを信じた時に、聖霊が注がれ、新しく生まれ変わりました。聖書にはこうあります。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました(Ⅱコリント5:17)。」主はそんな私たちにも、こうおっしゃられます。「大胆に預言し(福音を宣べ伝え)主のためなら何でもしなさい。神様があなたとともにおられるからです!」そういった積極的な信仰をもっているでしょうか?

2.しかし、私たちは謙遜さを忘れてはいけません。サムエルはイスラエルの民に、主の言葉を取り次ぎました。「わたしはイスラエルをエジプトから連れ上り、エジプトの手から救い出した神である。それなのにあなたがたは、わたしを退けて『私たちの上に王を立ててください』と言った。しかし、わたしはあなたがたを赦し、すべての災いと苦しみから救い、願ったとおり王を立てよう。(18-19意訳)」◆私たちが救われたのは、この一方的な主の「あわれみ」によるのです。確かに、手当たり次第に何でもする積極的な信仰は大切です。でも私たちがまだ罪人であった時に、イエス様が十字架にかかって死んでくださった、この一方的な恵みによって、赦され、生かされている事を忘れてはいけないのです。それを忘れて、自分が何者かであるように勘違いしてしまう時、私たちは大きな間違いを犯してしまうのです。後のサウルがそうであったように…。


3.この時のサウルは、まだ非常に純朴で謙遜でした。自分にくじが取り分けられた時には、恥ずかしさのあまり、荷物の間に隠れてしまいました(22)。誰よりも背が大きかったのに、縮こまる彼の姿は、まだあどけない青年です。そんなサウルに不満をいだく人もいました。彼らは「この者がどうして我々を救えよう(27)」と軽蔑し、贈り物を持って来なかったのです。その時のサウルは、権力を振りかざすことなく、ただ黙っていました。◆それは単なる内気な性格のせいではなく、信仰のゆえでした。何者でもない自分が、あたかもくじ引きのように(もちろんその背後には主の導きがありましたが)一方的に選ばれ、王とされた、そのことは彼自身がよく分かっていました。だからグッとこらえることが出来たのです。私たちも、軽んじられ、悔しい思いをする時には、この「黙っていた」サウルの姿を思い出したいと思うのです。主があわれみ深いように、私たちもあわれみ深く、謙遜で、平和をつくる神の子として、生きることが出来ますように。