「目に見えない力に導かれる サウル」Ⅰサムエル9章

前回は「王を欲しがるイスラエル」と題して学びました。イスラエルの長老たちは、サムエルにこう訴えました。「今や、あなたはお年を召され、あなたのご子息たちは、あなたの道を歩みません。どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください(5)」契約の民でありながら、周りの民を羨む彼らの姿は、残念としか言いようがありません。しかし主は、サムエルに「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ(7)」と言われました。そして、あたかも放蕩息子のお父さんが、その要求をのまれたように、彼らに王を与えられたのです。それは彼らが、義務や強制ではなく、心から主を愛する者として、悔い改めて帰ってくるためでした。

今日は、王とされるサウルの姿を通して、神様は、どのようにして導かれるのかを学びます。

1.神様は、問題を通して私たちを導かれます。まずはサウルが、いかに美しかったが記されています。「イスラエル人の中で彼より美しい者はいなかった。彼は民のだれよりも、肩から上だけ高かった(9:2)」。しかし彼は、それを鼻にかけるような人物ではなく、非常に従順な青年であったようです。ある時サウルの父の雌ろばがいなくなってしましました。父はサウルに「若い者をひとり連れて、雌ろばを捜しに行ってくれ(3)」とお願いしました。すると彼は素直に従ったのです。◆今日も神様は、問題を通して、みこころへと導かれます。みこころは神様の主権によってあらかじめ定められていますが、神様は問題のただ中で、私たちがそれにふさわしい者であるかをご覧になっておられるのです。もしも私たちがトラブルの中でも、謙遜に、そして誠実に、神と人と向き合っていくなら、その先に主のみこころが待っているのです。そう考えると、試練の中でも、苦しいのですが、その先にどんな主のみこころが待っているのか、ワクワクしますね。

2.神様は人を通して私たちを導かれます。雌ろばを探すにあたって、ひとりの若者がサウルに同行しました。この青年は、途中、引き返そうとするサウルに、こう助言しました。「待ってください。この町には神の人がいます。…今そこへまいりましょう。たぶん、私たちの行くべき道を教えてくれるでしょう(6)」。また、水汲み場で出会った娘たちはこう助言しました。「今、急いでください。きょう、町に来られました。きょう、あの高き所で民のためにいけにえをささげますから(12)」。サウルは大変裕福な家の青年でしたが(1)、プライドにこだわらず、自分より若い者、そして娘たちの助言に従ったのです。◆神様は、人を通しても語られます。もしかしたらその人は、自分よりも若く、経験もなく、社会的な立場もないかもしれません。でも私たちが素直になり、そういう人にも聞いて、助けられることを経験することが大切なのです。その中で私たちは砕かれ、自分の意見が絶対でないことを学んでいくのです。反対にいえば、自分のつまらないプライドにこだわり、意固地になればなるほど、どんどんみこころから離れて行くのです。


3.最後に私たちは、御言葉によって導かれます。旧約聖書の時代、神様は預言者を通して語られました。「主は、サウルが来る前の日に、サムエルの耳を開いて仰せられた(15)」とあります。直訳すると「耳を裸にして」という意味です。サムエルは、少年のころから「耳を裸にして」主に聞くことを学んでいました。彼はいつも「しもべは聞いております。主よお語り下さい(3:10)」と祈っていたのです。サウルは、そのサムエルを通して御言葉を聞き、導かれました。◆神様は今日、預言者を通してではなく、「聖霊」と「聖書」を通して語ってくださいます。私たちも「心を裸にして」御言葉に聞いているでしょうか?「しもベは聞いております。主よお語り下さい」と御前に静まっているでしょうか?サウルが王として選ばれたように、私たちも神の子として選ばれています。問題を経験する時も、主のささやくような小さな声に従っていくことが大切なのです。そのプロセス中で、私たちは「主の用意された最高の道」へと導かれていくのです。