「主が共におられたから」 Ⅰサムエル18章1−30節

前回から今回までのあらすじ:イスラエルの前には、ペリシテ人という大きな壁が立ちはだかっていました。その中でもひときわ高かったのが、身長が6キュビト半(2m86㎝)もあるゴリヤテでした。イスラエルの兵士たちは、戦意喪失していました。でもダビデは違いました。彼は言いました「この戦いは主の戦いだ。主はお前たちを我々の手に渡される(47)」。そして川から 石5つを拾ってきて、羊飼いの投石袋に入れ、ゴリヤテをやっつけたのです。このことから、普段からみことばと祈りに親しむことの大切さを教えられました。

ゴリヤテの一件からダビデは戦士として頭角を現し始めました。そしてサウルは年端(は)もいかないダビデを、ついに戦士たちの長としたのです(5)。ある日、ダビデ率いるイスラエルの軍隊は、ゴリヤテ亡き後のペリシテ軍に勝利しました。その時、女たちは「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った♪」と何度も繰り返し歌いました。サウルはそれを聞いて怒りました。「ダビデには万を当て、私には千を当てた。彼にないのは王位だけだ。」その日以来、サウルはダビデを疑いの目で見るようになった(9)。

私は最初にこれを読んだとき「民も配慮がないなぁ。サウルがかわいそうだ。怒るのも無理ない」と思いました。でも違いました。この「千」と「万」は比較の意味ではなく「イスラエル軍が『とてもたくさん』の敵をやっつけ勝利した!」という凱旋歌だったのです(参:詩91:7)。よく読めば、こう記されています。「女たちは…歌い、喜び踊りながらサウル王を迎えた。(6)」確かにダビデは愛されていましたが、だからと言ってサウルが嫌われていたわけではなく、彼は王として扱われていました。

サウルの心は、完全に嫉妬に飲み込まれ、疑心暗鬼になっていきました。「その翌日、わざわいをもたらす、神の霊がサウルに激しく下り、彼は家の中で狂いわめいた。(10)」もちろんこれは悪霊ですが、究極的には、神様が光も闇もご支配なさっているので「神の霊」となっているのでしょう(イザヤ45:7)。今まではサウルが発狂すると、ダビデが立琴をひき、回復していましたが、それも効かなくなり、彼は二度もダビデに槍を投げつけ、殺そうとしました。

その殺意は、どんどんエスカレートしていきました。ダビデを自分の元から離し千人隊の長にしたのも、娘のメラブやミカルとの縁談を持ちかけ、結婚の条件として敵地に赴くことを提案したのも、全てはダビデを激戦地に送り、殺害するためでした。サウルは、自分が王から退けられ、それが自分の友(側近)に与えられることを知っていました(15:23、25)。それがダビデであることに気づき、何としてでも自分の力で王位を守ろうとしたのです。

しかし神様はサウルの悪巧みさえも利用し、ダビデの王位継承を確かなものとされました。サウルは敵の手によってダビデを殺そうとしました。しかしダビデはその度に大勝利をあげ、ますますダビデの評判は上がっていき、ますますサウルはダビデを恐れるようになりました(15)。そしてついにダビデは、サウルの娘ミカルと結婚し、王女の婿となったのです。これでダビデが王になる正当な理由がほぼ整いました。

なぜこんなことが可能だったのでしょうか?もちろん人間の業ではないし、ダビデ一人の力でもありません。聖書は繰り返しこう述べています。それは「主が彼と共におられたから(12,14,28)」です。また新約聖書にはこうあります。「Rom.8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」