「真の友情」 Ⅰサムエル20章1−42節

前回はあまり読みませんでしたが、ダビデがゴリヤテを倒した直後、こんなことが書いてありました。「ヨナタンの心はダビデの心に結びついた。ヨナタンは自分と同じほどにダビデを愛した。(18:1)」このヨナタンは、父のサウルに似ず、信仰にあつく(14:6)、勇ましくも(14:14)、民思いの(14:29)優しい王子でした。「類は友を呼ぶ」と言いますが、そんなヨナタンの心はダビデの心に結びき、彼らは男女の愛にも勝る友情を築いていったのです(Ⅱサム1:26)。しかしサウルは、ダビデに王位を奪われるのではないかと嫉妬し、命を狙っていました。ヨナタンは、そんな父をなだめ、一度は「あれは殺されることはない」(19:6)と誓わせるのですが…。

しかしサウルは、すぐにヨナタンの見ていないところで、ダビデを殺そうとしました(19:10)。そこでダビデは、ヨナタンに訴えました。「私がどんなことをし、私にどんな咎があり、私があなたの父上に対してどんな罪を犯したというので、父上は私のいのちを求めておられるのでしょうか。(20:1)」しかしヨナタンは、この訴えを聞いても、最初は「絶対にそんなことはありません(20:2)」と信じることができませんでした。彼は健気にも父を信じていたのです。

そこで新月祭の会食のときに、父サウルの気持ちを確かめることにしました。その直前、ヨナタンはダビデに言いました。「主が私の父とともにおられたように、あなたとともにおられますように。(20:13)」これはヨナタンが、「ダビデこそ、父サウルの後を継いで王になるにふさわしい」と言っているのと同じ意味です。そしてこうとも言いました。「あなたの恵みをとこしえに私の家から断たないでください。」実際にダビデは、この契約(約束)に基づいて、自分が王となった後も、ヨナタンの子孫を丁重に扱いしました(Ⅱサム9:6)。

新月祭の食事のとき、二日目もダビデのいないことに気づき、サウルは怒りを燃やしました。そしてヨナタンを「ばいたの息子め」と罵り「エッサイの子がこの地上に生きているかぎり、おまえも、おまえの王位も危うくなるのだ。今、人をやって、あれを私のところに連れて来い。あれは殺さなければならない。(20:31)」と言いました。

この言葉から、サウルがなんとしても自分の息子に王位を継がせたかったことがわかります。それなのにサウルは、自分よりもダビデの味方をするヨナタンに怒りを燃やし、なんと自分の息子めがけて槍を投げ、殺そうとするのです(20:33)。サウルは完全に、我を見失っていました。このことから、サウルの息子への愛も、結局、本当の愛ではなく、自分のためのエゴ(自己愛)であることがよくわかります。


しかし、ダビデとヨナタンの間には本当の「愛と友情」がありました(20:17)。ヨナタンは、自分の命を危険にさらしながらも、ダビデを守りました。そしてダビデも、最後まで、ヨナタンに対して礼儀を尽くしています。本当は、隠れて合図を確かめたら、立ち去るはずだったのに、気持ちを抑えられず「ダビデは地にひれ伏し、三度礼をし」思わず出てきてしまいました。そして」「二人は口付けして、抱き合って泣き、ダビデはいっそう激しく泣いた(20:41)」のです。

これほどに美しくも、自分を犠牲にできる友情がこの地上にあるでしょうか?しかもその友情は、「永遠」だとも言われています(20:42)。イエス・キリストは言われました。「わたしはもはや、 あなたがたをしもべとは呼びません。わたしはあなたがたを友と呼びました。(ヨハネ15:15)」このイエス様の愛に、私たちも溢れる愛と尊敬で応えたいものです。