<前回からのあらすじ>
サウルはダビデが次々と戦果をあげ、どんなに悪を企てても、彼が祝福されていく様を見て、ダビデこそが以前サムエルによって告げられた、自分の次に王位に立てられた者であることを確信するようになりました(15:23、25)。それでもサウルは王位にしがみつき、自分の力でなんとかダビデを殺してしまおうとしました。それらは表向き、自分の息子ヨナタンに王位を継がせるためでしたが(20:31)、サウルはその息子にも槍を投げつけ殺そうとしました(20:33)。父の殺意を確信したヨナタンは、命がけでダビデを守り、父の元から逃しました。こうしてダビデの逃亡生活が始まりました。
逃亡者となったダビデは、ノブの祭司アヒメレクの所に行きました(21:1)。ノブは、サウルのいるギブアから南東に4㎞離れたところにありました。たかが4㎞ですが、逃亡前にも三日間身を潜め、命からがら人目を忍んで移動するダビデには、非常に長い距離に思えたのかもしれません。ダビデは心も体も憔悴しきっていました。そこで彼はアヒメレクに「今、お手もとに何かあったら、五つのパンでも、何かある物を私に下さい(3)」と願い出るのです。
一人で突然現れたダビデを不審に思ったのか、アヒメレクは「なぜ誰もお供がいないのですか」と質問しました。そこからダビデは、立て続けに嘘をつき始めます。「王(サウル)からの秘密の用事があるからだ」とか「若い者には後から落ち合うことにしている」とか…。それだけではありません。ダビデはその後ガテの王アキシュのところに行き、そこでサウルからの保護を求めました。敵(サウル)の敵(アキシュ)は味方ということでしょうか?
なんとも皮肉なものです。ガテとは、あのダビデが倒したゴリヤテの故郷です(17:23)。そのガテにダビデは、アヒメレクのところで手に入れたゴリヤテの剣を手に持って、その王アキシュに頼ろうとしているのですから(21:9)。でも結局それもうまくいきませんでした。アキシュの家来たちが「この人は、あの国の王ダビデではありませんか?皆が踊りながら『サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。』と言って歌っていたのはこの人のことではありませんか」と警戒したのです。
敵の方が、ダビデが何者なのかをよくわかっていました。彼らは、目の前の逃亡者を「あの国の王」と呼んだのです(実際はまだサウルが王であったのに!)。しかしダビデは、人を恐れ「気が狂ったのだと見せかけ、ヒゲによだれを垂らし、(公衆の面前で)城門をかきむしったりした(新共同訳21:14)」のです。なんと惨めな姿でしょう。
逃亡を始めてからダビデはちっとも祈っていません。ただ自分の知恵と策略に頼って、難をくぐり抜けようとしているのです。生き延びるためには「嘘も方便」で仕方がないのでしょうか?私も最初そう思いました。しかしその嘘が悲劇を招きます。何も知らずにダビデにパンと剣を与えたアヒメレクが、親族の85人の祭司たちとともに殺されてしまったのです。(これは預言の成就でもあります。アヒメレクの祖父はエリの息子ピネハス2:31)。
結局彼が再び「浮上」のきっかけをつかむのはガドの預言に従ってユダに戻り(22:5)「私があなたの父の家の者全部の死を引き起こしたのだ(22)」と自分の非を認めるところからでした。あなたはどうでしょうか?みことばにより頼まず、自分の知恵や策略によって切り抜けようと思っていないでしょうか?嘘も方便と言わんばかりに、自分も周りの人々もごまかしていることはないでしょうか?いつかメッキがはがれます。それではやっていけないのです。神のことばに従い、神と人との前で正直になり、再出発しようではありませんか。