<前回からのあらすじ>サウルに命を狙われ、ダビデはガテの王アキシュに助けを求めたり、アドラムの洞穴に隠れたりしていました。そこで、様々な人が集まってきて、あっという間に400人にまで膨れ上がりました。その後も、モアブの王を頼ったりしていましたが、預言者ガドが「さあユダの地に帰りなさい(5)」とアドバイスしたので、ハレテの森に行きました。それは、すぐにサウルの耳にも入りました。疑心暗鬼になった彼は、何とかダビデを探し出し、殺そうとするのでした…。
千載(せんざい)一隅のチャンスという言葉があります。「千年に一度めぐりあうほどの、またとない機会」という意味です。まさにそのようなチャンスが来たのです!三千人の精鋭を率いて、目を光らせながら自分の命を付け狙うサウルが、眼と鼻の先に、何とも無防備な姿で用を足しているのです。部下もこう進言しました。「今こそ、主があなたに、『見よ。わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたのよいと思うようにせよ』と言われた、その時です。(4)」
しかしダビデは、そうしませんでした。彼は、サウルの上着の裾(すそ)を、こっそりと、少しだけ切りとるだけにとどめました。しかも、そのことにさえ、心を痛めたのです。ダビデはその心境をこう説明します。「私が、主に逆らって、主に油そそがれた方、私の主君に対して、そのようなことをして、手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ。彼は主に油そそがれた方だから。(6)」そしてそのままサウルを去らせたのです。
なぜダビデは、サウルに手を下さなかったのでしょうか。それは、自分には悪意(殺意)がないことをサウルに証明するためでした。裾はそのための証拠です。ダビデはサウルに言いました。「それによって私には悪いことも、そむきの罪もないことを確かに認めてください(11)」。でもこの事には、それ以上の意味がありました。それは「主に油注がれた方(神様に選ばれた方)」に手を下す事は、ひいては「神様に背く事」という理解です。
しかしこの事は少し注意が必要です。なぜなら、ごくまれに起こる牧師の不祥事が、この「油注がれた方に手を下す事は神に背く事」という論理によって、覆い隠されてしまう事があるからです。新約時代、油(聖霊)は王だけでなく、イエス・キリストを救い主と信じる全ての民に注がれています(使徒2:17−18、Ⅰペテロ2:9)。ですから一部の教職者だけが重要なのではなく、一人一人に働く御霊の導きを大切にしながらよく話し合い、選出(任命)された人々(役員/長老)による合議制というのが、基本的な教会の姿です(使徒15章)。
でも同時に聖書にはこう記されています。「兄弟たちよ。あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人々を認めなさい。その務めのゆえに、愛をもって深い尊敬を払いなさい。お互いの間に平和を保ちなさい。(Ⅰテサロニケ5:12−13)」この中の「その務めのゆえに」とは「みことばを語る務め」のことです。もちろん口先で語るだけでなく、まず自分自身が、みことばに生きるよう務めていることも含みます。
つまり、ダビデの言った「油注がれた方」との考え方は、旧約聖書のままではないにしろ、今日も、注意しながら、大切に受け取っていくべき教えであるということです。現代の教会が、民主主義を強調するあまり、フォロワーシップ(指導者を守り立てていく姿勢)を忘れてしまうなら、それはとても残念なことです。同時に群れの指導者は、サウルのようになることのないよう、常に神と人との言葉に耳を傾ける必要があります。