「ナバルとアビガイル」 Ⅰサムエル25章


<前回からのあらすじ>
チャンス到来!自分の命を狙うサウルが無防備な姿で用を足していたのです。部下もこう言います。「今こそ主があなたに、『見よ。わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたのよいと思うようにせよ』と言われた、その時です」しかしダビデは手を下しませんでした。「主に油そそがれた方」に敵対することは、主に逆らうことになると判断したからです。このことでサウルは言いました。「あなたは私より正しい。 あなたは私に良くしてくれたのに、 私はあなたに悪いしうちをした。」今日はその続きです、いったいどうなるのでしょう?

場面は一旦サウルから離れ、「サムエルが死んだとき」と始まります。ダビデにとってはどんな悲しみであったでしょうか?ただ一人、サウルに対しても対等か、それ以上の預言者として発言ができて、戒めることができたサムエルがいなくなってしまったのです。ダビデ自身にとっても、頭に油を注ぎ「王となる」と宣告してくれた方です。そんな最大の助言者であり後ろ盾を失って、不安と恐れ、そして寂しさをかみしめていたことでしょう。◆またダビデは、心身ともに疲れ切っていました。サウルの怒りは一時的におさまっていたものの、サムエル亡き今、またいつ心変わりして、命ねらわれるか分かりません。荒野の逃亡生活も相変わらず続いていましたし(1)、状況は以前と何も変わっていなかったし、ユダの地に帰ってきたことによって、更に厳しくなっていました。長引く逃亡生活の中で、彼の心身は悲鳴を上げ、食べ物と休息を必要としていました。またダビデには部下を養う責任もありました。

そして藁にもすがる思いで、ナバルに助けを求めたのです。ナバルはその時、羊の毛を刈っていました。つまり喜びの時、祝いの時だったのです。ダビデは部下を通して丁重にお願いしました。「あなたに平安(シャローム)がありますように。あなたの家に平安がありますように。また、あなたのすべてのものに平安がありますように。(6)」また詳しいことはわかりませんが、ダビデは以前、ナバルの羊の群れも守っていたようで、そのことにも触れ、あわれみを求めました。◆しかしナバルは、恩をあだで返すような真似をしました。彼は言いました。「ダビデとは、いったい何者だ。エッサイの子とは、いったい何者だ。このごろは、主人のところを脱走する奴隷が多くなっている。(10)」なんという非礼でしょう!恩知らずで、自分の立場をわきまえない、偏狭なケチ、彼はその名の通り、ナバル(愚か者)でした。

一方、彼の妻アビガイルは実に賢い人でした。彼女は夫の尻拭いをするために、夫には告げず、なだめの供物を持って飛んで行き、ダビデの前に顔を伏せて地面にひれ伏しました。彼女は自分が何をすべきで、何者かを、わきまえていました。彼女の賢さと夫の愚かさは、その言葉に際立っています。箴言にはこうあります。「柔らかな応答は憤りを静め、傷つける言葉は怒りをあおる。知恵ある人の舌は知識を明らかに示し、愚か者の口は無知を注ぎ出す。(15:1-2新共同訳)◆ダビデには、怒りの中でも(当時蔑まれていた)女の忠告を聞き入れる賢さがありました。サウルには、たぐい稀な忍耐強さを発揮した彼ですが、ナバルには危うく無駄な血を流し、主の祝福を失うところでした。あなたはどうでしょうか?怒りに任せて発言し、行動していませんか?神の子として平和をつくるどころか、火に油を注いでいませんか?カッとする時にこそ、グッとこらえて、深呼吸し、神と人との言葉に耳を傾けることができますように。復讐ではなく、祝福するために、あなたは救われました。