<前回からのあらすじ>
親切にしてあげた人に、手の平を返したように邪険に扱われたら、誰だって悲しく「あんなに良くしてやったのに!」と怒るでしょう。ダビデもそうでした。ダビデはかつてナバルの羊の群れを守ってあげたのに、一番苦しい時、恩を仇で返されたのです。ダビデは、部下に「めいめい自分の剣を身につけよ」と命じ、自分も剣を身につけて、四百人ほどの部下と共に、ナバルのところに向かいました。復讐するためです。しかしナバルの妻アビガイルは事の重大性を察知し、賢く振る舞い、ダビデの怒りを鎮めました。まさに箴言(聖書)にこうある通りです。「柔らかな応答は憤りを静め、傷つける言葉は怒りをあおる(15:1-2新共同訳)。」
またとないチャンスが、またやってきました。前回は、洞窟の中でサウルが用を足しているところ、ダビデがサウルの上着の裾を切り取りました。今回は、幕営の中で、サウルも、アブネルをはじめ彼の部下たちも熟睡していたのです。その枕元には、槍が突き刺してありました。このチャンスは、偶然ではありませんでした。主が彼らを深い眠りに陥(おとしい)れられたので、みな眠りこけていたのです(12)。◆この状況の中、ダビデの部下であるアビシャイは言いました。「神はきょう、あなたの敵をあなたの手に渡されました。どうぞ私に、あの槍で彼を一気に地に刺し殺させてください。」しかしダビデは答えました。「殺してはならない。主に油そそがれた方に手を下して、だれが無罪でおられよう。主は生きておられる。主は、必ず彼を打たれる。彼はその生涯の終わりに死ぬか、戦いに下ったときに滅ぼされるかだ。私が、主に油そそがれた方に手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ。さあ、今は、 あの枕もとにある槍と水差しとを取って行くことにしよう。(9〜11)」
ここで見えてくるのは、サウルの気まぐれと、ダビデの一貫性です。サウルは正気を失っていたのかもしれません。約束したこともすぐに忘れてしまいました。涙を流して「あなたは私より正しい。あなたは私に良くしてくれたのに、私はあなたに悪いしうちをした(24:17)」と言ったのに、今日の箇所では三千人の精鋭を率いて、再びダビデを追いかけているのです。そしてダビデが枕元から奪った槍と水差しを見せると、また態度を一変させ、「私は罪を犯した。わが子ダビデ…」と言っているのです。◆それに対してダビデの態度は、サウルに関しては一貫していました。たとえ側近に「今がチャンスだ」と言われても、「主に油そそがれた方に手を下すことは主の前に絶対にできない」と、その意見に流されることはありませんでした。このブレない生き方はどこから来るのでしょうか?それは自分よりも大いなる方を認め、その方に従って生きることからです。逆に言えば、その方の権威を認めない者は、結局自分の感情に従って生きているのであり、その歩みには一貫性がなく不安定です。
あなたは、どちらですか?サウルのように、感情のままに動いたり、人の目を気にしすぎたりすることはありませんか?それともダビデのように、一本筋の通った生き方をして、神様からも祝され、人からも信頼される、ブレない生き方をしているでしょうか?◆その生き方は「主は必ず彼を打たれる」「主は私のいのちをたいせつにして、すべての苦しみから私を救い出してくださいます」と、全てを主に委ねる信仰から来ています。だからどんなに怒っても怒り過ぎず、自らの手で最後の一撃を下さないでいることができたのです。聖書にもこうあります。「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』」(ローマ12:19)