「霊媒に頼るサウル」Ⅰサムエル28章3−25節

またとないチャンスを、また得たダビデ。しかし彼は二回とも、サウルに手を下しませんでした。理由は、サウルが主から油注がれた王であったこと(26:9)と、正しく裁いてくださる主を信頼していたからです(10)。その後サウルは、「私は罪を犯した。わが子ダビデ。(21)」と反省してみせましたが、ダビデは、二転三転するサウルの言葉を信頼することができませんでした。そこで、27章でダビデは再びペリシテのガテに逃れ、アキシュ王の世話になるのです。そのことはまた次回学びますが、今日の箇所では、そのダビデを迎えたペリシテ軍と、イスラエルとが戦おうとしています。 サウルの恐怖は頂点に達していました。

サウルの心はひどくわななきました(5)。当然、サウルの耳にもダビデがペリシテ軍にいることは伝わっていたでしょう。そこで彼は、最初、主に助けを求めましたが、主は夢によっても、ウリム(主の御心を知るための祭司の道具)によっても、預言者を通しても答えてくれませんでした(6)。そこでサウルは言いました。「霊媒をする女を連れてこい(7)」。それが御心にそぐわないことは彼だって分かっていました。◆その証拠に、彼は変装をしてその女のところに行きましたし、3節には、彼がかつて霊媒や口寄せを国外に追い出していたことが記されています(3)。では、なぜ彼は霊媒にすがったのでしょう。それは神への「畏れ」よりも、敵への「恐れ」の方が上回ったからです。そういえば、以前もそんなことがありました。王になって最初のペリシテとの戦いの時、サムエルに「私が着くまで待たなければならない(10:8)」と言われたのに、待てず、自分の手でいけにえを捧げてしまったのです。

それにしても不思議なのは、霊媒を通して、実際にサムエルが現れたことです。聖書は厳しく霊媒を禁じています(レビ19:31、申命18:10−13)。それは、そういった諸々の霊的な働きが「存在しない」からではなく、「危険」だからです。聖書にはこうあります。「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。(Ⅰヨハネ4:1)」ここに「ためしなさい」と言われていますが、それは「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制といった『御霊の実』によって見分ける」ということでもあります。◆しかし、今日の箇所を見る限り、この霊媒の女は親切です。元気を失ったサウルに「パンを少し差し上げますから、それを食べてください。おかえりの時、元気になられるでしょう。(22)」といって、励ましています。実際に見極めるのは、簡単なことではありません。聖書には、こうともあります。「しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。(Ⅱコリ11:14)」

では、いったい何が危険なのでしょう。ある人は「占いに行き、雑誌のそういうコーナーを読んでいるけど別に何にも起こりませんよ」と思うかもしれません。何度かバッチリ当たり、スッキリしたかもしれません。それが危険なのです!麻薬と同じで、やめられなくなってしまうのです。そして徐々に悪魔に支配されてしまうのです。◆サウルの間違いは、手っ取り早く、間違った方法でもいいから、主の御心を知ろうとしたことです。しかし主が私たちに望まれるのは、自らの罪を悔い改め、耐え忍んで主を待ち(詩篇37:7)、地道にみことばを通して主を知ろうとすることです。それなくして、手っ取り早く、人を通したり、何かの方法によったりして、主の御心を知ろうとするなら、結局それも占いと変わらないのではないでしょうか? あなたが主を待ち望み、謙って、本当の祝福を受け継ぐことができますように。