「神様のご介入」 Ⅰサムエル27章、28章1〜2節、29章

<前回からのあらすじ>前回は、霊媒に頼るサウルの姿を反面教師として教えられました。サウルの間違いは、悔い改めや、御心がよく分からない中で、それでも御言葉を待ち望むといった根本的な解決ではなく、手っ取り早く、間違った方法でもいいから、御心を求め、問題を解決しようとしたことです。今日の箇所では、それとは反対に、非常に困難な状況の中でも、御心を求め続け、主からの解決を待ち望んだダビデの姿を見ることができます。

ダビデは再び、ペリシテの町ガトの王アキシュを頼りました。正気を失ったように、何度悔い改めても、また血眼(まなこ)になってダビデの命を狙うサウルから逃れるためでした。ダビデは600人の部下と家族を連れて、アキシュのところに逃れたのです。その効果はてきめんで「サウルは二度とダビデを追おうとはしません(27:4)」でした。実は、アキシュのところに逃れたのは、これが初めてではありませんでした。◆初めてサウルから逃亡した時、彼はまず祭司アヒメレクのところに行き、そこでゴリヤテの使っていた剣を得て、ゴリヤテの故郷ガテの王アキシュのところに逃れたのです。その時の彼の姿は、惨めそのものでした。恐れのあまり、神様に祈ることを忘れ、かつて自分が倒したゴリヤテの剣と、敵の王にすがり、しかもアキシュの部下たちには疑われ、ヨダレを流し、扉をかきむしるというキチガイの真似をし、ようやくその場を逃れるのでした。まさに「その場しのぎ」のダビデでした…。

しかし今回は少し様子が違います。再びアキシュを頼ったことは、確かに良いこと(ベストな判断)ではなかったかもしれません。でも現実は、必ずしも白黒はっきりと分けられるようなものではありません。そういった複雑で、先の見えない状況の中でも自分を見失わず、それでもしっかり神様に従っていくことが大切なのです。今回のダビデには、現実の中で、辛抱強く「主の時」を待ち望む信仰がありました。◆まずダビデは、アキシュに取り込まれてしまわないため、適当な距離を保ち、ツィケラグの町に住みました(27:5)。そしてツィケラグから出陣し、ゲシュル人、ゲゼル人、アマレク人の町を襲い、アキシュに「今日はどこを襲ったのか」と聞かれると「ユダのネゲブ」などと答えていました。そうして、あたかもイスラエルには一片の未練もなく、アキシュに忠誠を尽くしているように信じ込ませたのです(27:8-12)。先にも言ったように決してこれがベストな方法だとは言えません。あまりにも多くの血が流されました。だから彼は神殿を建てられなかったのでしょう。

そんな時、イスラエルとペリシテが戦争を始めることになりました。当然アキシュはダビデとその部下にも出陣を求めました。その時ダビデは「よろしゅうございます。このしもべがどうするか、お分りになるでしょう(28:2)」と明言を避けつつも、アキシュには「はい、もちろん」と聞こえるように答えました。またアキシュの部下に反対された時には「王さまの敵と戦うために私が出陣できないとは(8)」と悔しがってみせましたが、原文では「私の主、王の敵と戦う」となっています。つまりダビデはいざとなったら「主(神様)の敵と戦う」つもりでいたのでしょう。◆彼はあくまでも、神様とイスラエルに忠誠を誓い続けました。そうして間一髪のところで、ダビデと部下は帰ることが許されたのです。まさに「神様のご介入」です。あなたはどうでしょうか?現実には難しい判断もあります。刻一刻と変化する事態の中で、一つ一つ判断を下していかなければいけません。でもその中にあっても「神様のご介入」を待ち望む信仰があるでしょうか?そこに私たちの真の信仰があるのです!