「分けへだてなく」 Ⅰサムエル30章

<前回のあらすじ>ダビデはサウルに命を狙われ、再びガテ(ペリシテ)のアキシュを頼りました。実は以前にも同じようなことがありました。しかし今回のダビデは、威風堂々として、アキシュにも、一目置かれる存在となっていきました。そんな時、困ったことが起こりました。そのペリシテとイスラエルが全面戦争に突入したのです。当然アキシュはダビデにも出陣を要請しましたが、他の領主たちの反発により、間一髪のところで出陣を免れました。まさに神様の介入です。その後ダビデとその部下はツィケラグに帰って行きました。

三日目にダビデと部下たちが帰ってくると目の前には信じられない光景が広がっていました。なんと町が、アマレク人に襲われた後だったのです。彼らはダビデをはじめとする町の男たちがいない間に、町を火で焼き払い、女と子どもたちを一人も殺さず連れ去ってしまったのです。その中には、ダビデの二人の妻(アヒノアムとアビガイル)も、部下たちの家族も含まれていました。◆最初、ダビデも部下たちも、泣く力がなくなるまで一緒に泣きました。しかし民の怒りは段々ダビデに向きました。そして「ダビデを石で撃ち殺そう」と相談し始めたのです。そのような状況の中で、ダビデは「主によって奮い立ち」ました。そして、祭司エブヤタル(サウルによって殺されたアヒメレクの息子)を通して、占いに頼ったサウルとは違い、正式な方法で主のみこころを伺い、「追え、必ず救い出すことができる」との答えを得ました。

彼らは追いかけ、ベソル川まで来ました。追撃に出かけたのは600人でしたが、そこで200人のものが疲れ切って脱落してしまいました。そんな時一人のエジプト人が、ダビデのところに連れてこられました。彼はアマレク人の奴隷でしたが、病気なり、主人に置き去りにされてしまったのです。ダビデは、そんな彼に食事を与え、介抱し、元気になるのを待ってから、情報を聞き出し、ついに略奪隊に追いつきました。◆ダビデと部下は彼らと戦い、奪われたものを全て取り戻すことができました。聖書には、「彼らが失ったものは何一つなかった」とあります。そればかりか、家畜などの戦利品(分捕りもの)を得て帰途につきました。その途中、ベソル川のところで、疲れてついて来られなくなった200人に会いました。ダビデと一緒に戦った部下たちは、「彼らは一緒に来なかったのだから、分捕りものを分けてやる必要はない。自分の妻と子供を連れて行くがよい」と言いました。それがこの世の常識でしょう。しかしダビデは「平等に分け会わなければならない」と言いました。

なぜダビデは「共に同じく分け合わなければならない」と言ったのでしょうか?彼自身が、こう説明しています。「兄弟たちよ。主が私たちに賜った物を、そのようにしてはならない。主が私たちを守り、私たちを襲った略奪隊を私たちの手に渡されたのだ(23)」つまり、この勝利は、私ダビデの手柄でも、一緒に戦ったお前たち(部下)の手柄でもなく「主のみわざ」であり「主の栄光」だというわけです。その日以降、これがイスラエルの掟となりました。◆私たちはすぐに、自分たちの払った犠牲と権利を主張する者です。それは「この成功は私のおかげでしょ」と言っているも同じです。それなのに、何かを失えば(失敗すれば)、すぐに「人のせい」にするのです。まさに、ダビデの部下たちがそうでした。しかしダビデは、見捨てられたエジプト人奴隷を介抱し、一緒に戦わなかった者たちにも、気前よく分け与えました。今週は受難週ですが、それはイエス様にも見られる姿です。私たちは見捨てられても仕方のない罪の奴隷だったのに、一方的な恵みによって救われました。恵みを受けた者として、私たちも気前よく分け与え、喜んで赦す者となりたいと思います。