<前回までのあらすじ>イスラエルとペリシテとの戦いに、間一髪、加わらなくても良くなったダビデでしたが、ツィケラグに帰ってくると町はアマレク人により略奪されていました。しかしダビデは「主によって奮い立ち」、妻をはじめ略奪されたものを全て取り返しました。その後イスラエルとペリシテの全面戦が始まり、その戦いの中で、サウルとヨナタンは亡くなってしまいました。前回はその敗戦の中で、サウルとその子たちの体を丁重に葬った、ヤベシュ・ギルアデの人々の姿から教えられました。
ダビデがアマレク人を打ち破って、数日経った時のこと、一人の男が訪ねてきました。彼の着物は裂け、頭には土をかぶり、急いで来たのは一目瞭然でした。彼はサウルとその子ヨナタンの死を報告し、サウルの死についてはこう説明しました。「サウルが自分に『私を殺してくれ』とお願いしたので、『私は近寄って、あの方を殺しました。私はその頭にあった王冠と、腕についていた腕輪を取って、ここにあなたさまのところに持ってまいりました。(10)』」。その王冠と腕輪は本物であったでしょう。ダビデには見覚えがあったと思われます。ダビデは、その王冠と腕輪を見て、主君サウルの死と、親友ヨナタンの死を確信しました。◆しかしその報告には嘘が含まれていました。前回私たちは「サウルが道具持ちに『おまえの剣を抜いて、それで私を刺し殺してくれ』とお願いしたが、道具持ちにそうすることはできず、結局サウルは自らの剣の上にうつぶせに倒れ自害し、道具持ちはその死を見届けた」ことを読みました(1サム31:3−4)。ではなぜ、このアマレク人は嘘の報告をしたのでしょうか。そう報告し、王冠をダビデに持っていけば、喜んで自分に褒美をくれるとでも思ったのでしょうか?
しかし、それを聞いたダビデは、自分の衣を裂いて、断食をし、悲しみました。その悲しみを、歌にも詠んでいます。「サウルもヨナタンも、愛される、りっぱな人だった。(二人は)生きているときにも、死ぬときにも離れることなく、鷲よりも速く、雄獅子よりも強かった。(23)」親友ヨナタンについては、更にこう付け加えています。「私の兄弟ヨナタンよ。あなたは私を大いに喜ばせ、あなたの私への愛は、女の愛にもまさって素晴らしかった。(26)」そこに恨み辛みは一切なく、ヤベシュ・ギルアデの人々のように、ただ彼らの偉業をたたえたのです。◆そして自分の部下に「近寄って、これ(このアマレク人)を打て」と命じ、その理由をこう説明しました。「おまえの血は、おまえの頭にふりかかれ。おまえ自身の口で、『私は主に油そそがれた方を殺した』と言って証言したからである。(16)」ここに「と言って証言したからである」とある通り、ダビデはおそらく、このアマレク人の嘘を見抜いていたのでしょう。
普通の人であれば、自分の命を狙う人がいなくなれば喜ぶのではないでしょうか?でもダビデは違っていました。今までも何度かチャンスはありましたが「主に油注がれた方」に、手をくだすようなことは決してありませんでした。また自分が王になることは、主によって約束されていましたが、焦って自分の力でそれを早めたり、実現しようとしたりすることはありませんでした。彼はただ辛抱強く「神の時」を待ち望んだのです。その信仰のゆえに、神様はダビデを、ますます祝福されるのです。◆あなたはどうでしょうか?いくら正しくても、相手の不幸や失敗を喜んではいけません。ダビデのように主を恐れ、迫害する人にも憐れみ深くありますように。また正義のためであっても、人間的な方法で強引に進めたり、自分勝手な判断で突き進んだりしてしまうことがありませんように。サウルはそれで失敗し王位(祝福)を失ってしまいました。最後まで主の御心を求め、従い通すことができますように。