<前回までのあらすじ> 前回の箇所で、アブネルはイシュ・ボシェテとある問題で衝突しことをきっかけに、ダビデとの和平交渉に臨みました。しかしヨアブは、弟アサエルの仇を討つためにも、アブネルを暗殺してしまったのです。ダビデは、それを非常に悲しみました。しかし、その姿を見て、結果的に全イスラエルは、ますますダビデを信頼するようになり、イスラエルの統一はまた一歩近づいたのです。
アブネルが死んだことによって、イシュ・ボシェテは気力を失ってしまいました。衝突していたとはいえ、実際に国を動かしていたのはアブネルであり、彼なくしてどうしたら良いのか、イシュ・ボシェテは途方にくれてしまいました。そんな彼の元には、二人の略奪体の隊長が残されていました。彼らは兄弟でバアナとレカブと言い、ベエロテ出身でしたが(2)、ベエロテとはギブオンの町の一つで、そのギブオンはもともとエモリ人の一族でした。しかしヨシュアの時代にイスラエルに組み入れられ、サウルの出身部族でもあるベニヤミン人に数えられていました。しかしサウルは、そのギブオン人達に酷い仕打ちを加えていたようで、彼らの間には、サウル一族に対する不満が鬱積していました(Ⅱサム21章)。◆アブネルなき今、もう怖いものはありません。レカブとバアナは、白昼堂々イシュ・ボシェテの家にやってきて、寝ている彼を突き殺し、その首をはねたのです。そしてその足で、ダビデのところに行き、こう言いました。「ご覧ください。これは、あなたのいのちをねらっていたあなたの敵、サウルの子イシュ・ボシェテの首です。主は、きょう、わが主、王(ダビデ)のために、サウルとその子孫に復讐されたのです。(8)」
でもダビデは、そんな言葉に踊らされませんでした。この点において、ダビデは一貫しています。かつてサウルが亡くなった時も、まるで自分の手柄のように伝えたアマレク人がいましたが、ダビデは「油注がれた方」に手を下したと自称した彼をその場で打ちました。そのダビデが、今回もこう言うのです。「ひとりの正しい人を、その家の中の、しかも寝床の上で殺したときはなおのこと、今、私は彼の血の責任をおまえたちに問い、この地からおまえたちを除き去らないでおられようか。(11)」◆イシュ・ボシェテは「油注がれた方」ではありませんでしたが、ダビデとしてはサウルの子にも、最後まで礼節を尽くしたかったのです。それが彼の信仰でした。ダビデは「私のいのちをあらゆる苦難から救い出してくださった主は生きておられる(9)」ことを信じていました。だから油注がれた方に手を下したり、寝ている人を襲ったりして、自分の時や策略を優先し、主の御心を成し遂げようとは思いもしませんでした。そんなことをしなくても、主は必ず、主の時に、主のやり方で、約束を果たしてくださることを信じていたからです。それを待つのが彼の信仰でした。
そしてついにその日が来ました。イシュ・ボシェテを失ったイスラエルの全部族は、ダビデのもとに来てこう言いました。「私たちはあなたの骨肉です。サウルが私たちの王であった時でさえ、イスラエルを動かしていたのは、あなたでした。主は言われました『あなたがわたしの民イスラエルを牧し、あなたがイスラエルの君主となる』」。こうして全長老は、ダビデに油を注ぎ、神様の約束が成就されました。◆ダビデの素晴らしかった点は、ひたすら「主の時」を待ち続けた事です。詩篇37篇でこう言っています。「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる(5)。主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対して、腹を立てるな(7)。」私たちも辛い時があります。でもそんな時にこそ、耐え忍んで「主の時」を待つ事ができますように。