『神の恵みを施したい』 Ⅱサムエル9章1−13節

<前回までのあらすじ>ダビデが国を統一し、神の箱をエルサレムに安置してから、イスラエルは、エルサレムを中心として東西南北に急拡大しました。それは、神様が、アブラハムと交わされた約束の成就でした。「その日、主はアブラムと契約を結んで仰せられた。『わたしはあなたの子孫に、この地を与える。エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで。』創世記18:15」ダビデも、そのことをよく理解し、勝利を自分の手柄や栄光とせず、戦利品を聖別して主にお捧げしました。

ダビデの賢さは、勝利に酔いしれないところにありました。前回も、勝利の栄光を自分のものとするのではなく主にお返ししましたが、今日の箇所ではサウル家に対するあわれみという形で現れています。ダビデはこう言いました。「サウルの家の者で、まだ生き残っている者はいないか。私はヨナタンのために、その者に恵みを施したい。(1)」サウルといえば、ダビデの命を長年にわたって、しつこく、何度も、つけ狙った政敵でした。また、その子孫となれば、王位継承という意味で、ダビデの立場を脅かしかねない存在でした。◆しかし、よく読むと「(サウルの息子でダビデの親友の)ヨナタンのために」の一言があります。つまりダビデはヨナタンとかつて交わした契約のゆえに、そうしたかったのです。このように、聖書においては、神と人、もしくは人と人との約束(契約)が、非常に重要な意味を持つことがわかります。かつてダビデとヨナタンも契約を交わしました。Ⅰサムエル記20章14-15節にこうあります。「たとい私(ヨナタン)が死ぬようなことがあっても、あなたの恵みをとこしえに私の家から断たないでください。主がダビデの敵を地の面からひとり残らず断ち滅ぼすときも。」

ですがダビデのこの言葉が引っかかります。「私はその(サウルの家の)者に…神の恵みを施したい。(7)」いくらダビデであっても、人であることには変わりありません。それなのに、なぜ彼は「神の恵みを施したい」と言ったのでしょうか?これは彼の傲慢でしょうか?いいえ。彼は、かつて神様の一方的な恵みにより、羊飼いから王様にされた者として、自分も、その神様の恵みを、施すものになりたいと願ったのです。◆メフィボシェテは、人の目から見れば、没落した王家の子孫でした。しかも彼の両足はなえていました。その状況をメフィボシェテ自身がこう表現しています。「このしもべが何者だというので、あなたは、この死んだ犬のような私を顧みてくださるのですか。(8)」犬とは、当時、人を卑(いや)しんで使う言葉でした。でもダビデは、一方的な恵みを受けた者として、ヨナタンの真実な友情に報いるためにも、そうしたかったのです。その恵みによって、メフィボシェテは、祖父サウルの地所を全て返され、ダビデと同じ食卓で、自由に食事するものとなりました。

私たちも似ているのではないでしょうか。神様から見たわたしたちとは、死んだ犬どころか、アリよりも小さな者であり、霊的には罪過の中に死んだ者でした。しかし神様は、そんな私たちを心からあわれみ、真実な友として、ひとり子イエスを与え、十字架につけて、闇の中から光に、死からいのちに移して、救ってくださいました。そして、神の子とし、主イエスとの親しい食事(交わり)に生きるものとされました。(黙示3:20)◆その一方的な恵みに預かった者として、あなたは、その恵みを周りの方々に分かち合う者となっているでしょうか?それとも独り占めしているでしょうか?ダビデにとって、メフィボシェテは、助けても何の得にもならないような存在でした。でも恵みを受けたものとして、ダビデは当然のことをしたのです。私たちも恵みを受けた者として、あわれみ深い者となることができますように。