『しかし、主の御心をそこなった』 Ⅱサムエル11章18−27節

<前回までのあらすじ>
前回は、本当に涙ぐましいほど健気(けなげ)なウリヤの忠誠心と、その忠誠心さえも利用して自分の罪を隠蔽しようとするダビデの邪(よこしま)が、明(めい)と暗(あん)をなしていました。最終的にダビデは、ウリヤの暗殺を指示する手紙をウリヤ本人に持たせ送り出しました。その手紙を受け取ったヨアブはダビデの指示通り淡々とことを運び、ウリヤはあっけなく死んでしまいました。

ヨアブはそのことをダビデに報告するために、使者に命じて言いました。「もし王が怒りを発して、おまえに『なぜ、あなたがたはそんなに町に近づいて戦ったのか』と言われたら『あなたの家来、ヘテ人ウリヤも死にました』と言いなさい。」ヨアブは将軍ですから、当然、敗戦や部隊の損失、部下の死に関しては責任を問われる立場です。ヨアブは心の何処かで、それを恐れていました。そこでもしダビデ王が怒りだしたら、最後に「ヘテ人ウリヤも死にました」と言いなさいと命じたのです。ヨアブは手紙を読んで、気づいていました。それこそがビデの目的であり、ダビデを一番喜ばせることだということを。◆そして使者はダビデのところに行って、戦況を報告し、最後にこう付け加えることも忘れませんでした。「あなたの家来、ヘテ人ウリヤも死にました。」ダビデはそれを聞いて言いました。「ヨアブにこう言わなければならない『このことで心配するな』あなたは、彼を力づけなさい。」いっけん、部下思いの優しい王様の言葉のように聞こえますが、何とも不気味なやり取りです。一人の部下が戦「死」したのです。彼は今まで命がけでイスラエルと王様を守ってきた名だたる勇士でした。その誇り高き名が、それぞれの思惑の中で、もてあそばれているのです。誰がこのウリヤの死を心から嘆き悲しんでくれるのでしょうか?

せめてもの慰めは、ウリヤの妻バテ・シェバが、心から夫の死を悲しんだことです。聖書にはこうあります。「ウリヤの妻は、夫ウリヤが死んだことを聞いて、夫のためにいたみ悲しんだ」。この悲しみだけは、偽りがなく、真実でした(と信じたいものです)。またイエス様の系図の中には、こうあります。「エッサイにダビデ王が生まれた。ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ…(マタイ1章6節)」。こうしてバテ・シェバは、永遠にウリヤの妻として、聖書に記載されることになったのです。◆バテ・シェバと関係を持ち、男の子が生まれるまでの10ヶ月間、ダビデはどんな気持ちだったのでしょう?うまくやりこめたと思ったのでしょうか?それとも罪悪感に苦しんでいたのでしょうか?喪が明けると、ダビデは人をやり、彼女を家に迎え入れました。人々は、部下思いの王様だと思ったかもしれません。でも全ては「偽善」「作り話」「出来レース」でした。人の目は誤魔化せても、神様の目を誤魔化すことはできません。「しかしダビデの行ったことは主のみこころをそこなった」。この出来事が家庭の歪(ゆが)みとなり、国家の歪みとなるのです。

あなたは誰の心をそこなうことを恐れて生きているでしょうか?ダビデは人にバレることを恐れ「主のみこころをそこなって」しまいました。聖書にはこうあります「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい(マタイ10章28節)」たとえ自分の計画通り、とんとん拍子に進んだとしても、ストップがかからなくても、神様が許可しておられるのではありません。罪は罪です。あなたはその責任を問われます。今すぐその道を離れ、方向転換できますように。