<前回までのあらすじ>
アモンとの戦いの際、ダビデは夕方まで寝て、屋上を散歩していました。偶然、一人の美しい女性が、水浴びをしているのを見てしまいました。調べてみると、自分の部下であり、勇士でもあるヘテ人ウリヤの妻だと分かりました。しかしダビデは欲望を抑えきれず、彼女と寝てしまいました。その結果、彼女は身ごもりました。それでもダビデは自分の罪をもみ消そうとして、ウリヤを激戦地に送り出し、殺してしまいました。彼のしたことは主のみ心をそこないました。
ここまでは完璧に、ダビデの思い通りに事が運んでいました。しかし誰も見ていなくても、見ておられるお方がいました。ダビデの前に、一人の男が現れました。預言者のナタンでした。彼はダビデに一つのたとえ話をしました。「ある町に、富んでいる人と貧しい人がいました。富んでいる人のところにお客さんが来た時、彼は自分の羊や牛の群れから取って調理することを惜しみ、貧しい人が、まるで自分の娘同然に可愛がり、寝食を共にしていた、たった一匹の子羊を取り上げて調理してしまいました。」◆それを聞いたダビデは激怒して言いました。「主は生きておられる。そんなことをした男は死刑だ。その男は憐れみの心もなく、そんなことをしたのだから、その雌の子羊を四倍にして償わなければならない(12:5-6)。」この“四倍にして”は、旧約聖書の贖い(罪の赦し)の律法に基づいての言及でした(出22:1)。しかもダビデは「主は生きておられる」と、主に誓って言っています。このように、このたとえ話を「他人事」として聞いているうちは、正しい善悪の判断をする事ができました。しかし、その同じ彼が、ナタンに「あなたがその男です。You are the man!」と言われるまでは、その話を「自分事」として聞く事ができなかったのです。
ダビデはなぜ、このたとえ話を聞いて、激しい怒りを燃やしたのでしょう?素直に読めば、ダビデは貧しい人に同情し、富んでいる人の、あまりにも「憐れみのない振る舞い」に激怒したのです。人間の心には、深い闇があります。自分の懐(ふところ)に、どれだけ溜め込んでも、何の感謝もせず、わずかでも出し惜しみするのに、人が所有することには敏感で、嫉妬し、人が大切なものを失っても何も感じず、そうなっても構わないと心のどこかで思っているのです。ダビデは、かつて自分自身も貧しい羊飼いだったので、この貧しい人に同情し、激怒しました。◆でもダビデは、いつのまにか自分も豊かになり、この金持ちと同じことをしているということには、目が塞がれていたのです。聖書にはこうあります。「ですから地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです(コロ3:5)」。欲望も偶像も同じで、私たちの心の目を塞ぎ、罪の自覚を麻痺させ、悔改める心さえ奪ってしまうのです。
また少し意地悪く読むなら、ダビデは激しく怒ることで、カムフラージュしたのかもしれません。人は重篤な罪を隠している時にこそ、やたらと正義を振りかざしたり、人をさばいたりするものです。先の霊的無感覚も、このカムフラージュも、どちらも恐ろしい罪の性質であることには変わりありません。◆あなたは大丈夫ですか?あなたが誰か(何か)に、激しく怒っている時、自分の心の中にも、同じ闇があることはないでしょうか?イエス様は「人の目の中の塵に気づくのに、なぜ自分の目の中の梁(はり)に気がつかないのか?」とおっしゃられました。誰かを指差す前に、「あなたがその男です。You are the man!」との、細き主の御声を聞く事ができますように。