<前回までのあらすじ>
ダビデとバテシェバの不倫の果てに、一人の男の子が与えられました。しかし、その子は生まれて間も無く、重い病気になりました。ダビデは、断食し、ひれ伏して祈りましたが、その子は死んでしまいました。その知らせを受けたダビデは「起き上がり、主を礼拝し、食事をとりました」。主の最善を信じて祈り、結果を主の最善と受け止めたのです。私たちは、そこから本当の祈りの姿勢を教えられました。
「ダビデは妻バテ・シェバを慰め、…彼女と寝」、その結果、再び男の子が与えられました。しかし以前とは何かが違っています。以前はただ「寝た(11:4)」とだけ記されていましたが、今回はバテシェバを「慰め」と記されているのです。これは何を表しているのでしょうか?一つはバテシェバが、心からウリヤを愛していたということです。彼女は決して玉の輿を喜んでいたわけではなく、夫の死を悲しんでいました。
またこの「慰め」は、ヘブライ語の「ナハムנָחַם」ですが、この言葉には他にも「悔い改める」とか「思い直す」などの意味があります。つまりダビデは預言者ナタンのことばを受けて、真に「悔い改め」ましたが、彼の罪は重く、生まれてきた子は病気になってしまいました。彼は、主が「思い直して」くださるかもしれないと、必死に祈りましたが、その子は死んでしまいました。でも神様は、別の形で「思い直して」くださり、それでもダビデを愛し、赦してくださいました。そんな彼を通してバテシェバをも「慰め」、二人に人生の再出発を用意してくださったのです。
そして希望の、男の子が誕生しました。ダビデはその子を「ソロモン(シャローム「平和」の派生語)」と名付けました。一方預言者ナタンは、その子を「エディデヤ(主に愛される者)」と名付けました。このエディデヤの名は、これ以降一度も聖書には登場していません。だからと言ってここにダビデの不従順を読み取らなくても良いでしょう。大切なのは、神様の怒りが過ぎ去り、愛と恵みによる回復が告げられていることです。まさに主は「怒るのにおそく、恵み豊か(詩篇103:8)」なのです。
しかも、その恵みの回復が告げられるのは、失敗をしてしまった、その現場においてでした。それはアモン人の町「ラバ」でした。このラバは、「年が改まり、彼ら(ヨアブたち)はアモン人を滅ぼし、ラバを包囲した。しかしダビデはエルサレムにとどまっていた(11:1)」あの「ラバ」です。ダビデは、このラバとの戦いの時に、都に留まり、罪を犯してしまいました。そしてウリヤを殺したのも、このラバでした (11:24)。ヨアブは、このラバに手こずっていましたが、勝利を目前にして、自分ではなく「あなた(ダビデ)がこれを攻め取ってください」と言ったのです。
これには、ヨアブの配慮以上の意味がありました。神様がヨアブを通して「ダビデが、自分でラバに勝利しなければならない」と言われたのです。その結果、ダビデはラバに出て行き、これに勝利し「冠がダビデの頭に置かれました(30)」。神様は、ダビデが失敗をした現場で、過去の自分に勝利させてくださったのです。ペテロもそうでした。彼は3回イエスを「知らない」と言ってしまいましたが、イエスは三度「あなたはわたしを愛しますか?」と問われました。
あなたはどうですか?愛に傷ついたら、愛することから逃げてはいけません。むしろ愛することであなたの傷は回復されるのです。人に裏切られたら、人を避けてはいけません。それでも信頼する中に完全な癒しがあるのです! 罪を犯したら、その罪から目をそらしてはいけません。ちゃんと向き合い、悔い改める時、そこに本当の慰めと、新しい出発があるのです。