<前回までのあらすじ>
アムノンが、異母兄弟であり、アブシャロムの実の妹であるタマルを辱めてから、2年の歳月が過ぎました。アブシャロムは、復讐の機会を虎視眈眈と狙っていたのですが、羊の毛を刈る祝いの席でついに決行し、アムノンを殺しました。アブシャロムはその後、3年間、ゲシュル王アミフデの子タルマイのところに逃げましたが、このタルマイは母マアカの父でした(参3:3)。一方のダビデは、アムノンの死を嘆き悲しんでいました。
3年の月日が経った頃、ダビデの心は、再びアブシャロムを求め始めました(新共同13:39)。これが前回話した、理解しがたいダビデの「甘さ」でもあります。彼は人並み外れて寛大でした。長男アムノンの死を決して忘れたわけではありませんが、その悲しみも癒え始め、またアブシャロムに会いたいと思ったのです。しかし、王位継承者一位であったアムノンを殺した大きな罪を、神と民の手前、そう易々と許すこともできず、ダビデは態度を決めかねていました。◆そのダビデの微妙な気持ちを悟ったのが、将軍ヨアブでした。百戦錬磨の将軍ヨアブから見て、兄のアムノンはどちらかと言えば意志も弱く、次期王としては不適格でした。一方の弟アブシャロムは、次回以降詳しく話しますが、良くも悪くも行動力があり、容姿は申し分なく、人を惹きつけるカリスマもありました。将軍としては、国の将来のためにも、ここでアブシャロムとダビデを和解させなければいけないという考えも働いたのでしょう。
そこでヨアブは一人のやもめを連れてきて、彼女の口に言葉を授け、ダビデの元に遣わしました。彼女は一つのたとえ話(もしかしたら実話であったかもしれません)をしました。自分には二人の息子がいたが、野で喧嘩をして一人が相手を打ち殺してしまった。そこに親戚がやってきて、兄弟殺しの罪に報いるために、生き残った息子も殺せという。でもそうなれば夫の名も根絶やしになり、財産も残せなくなる。(ある注解者は、「親戚がその財産が自分のものになることを狙っていた」と言います)◆彼女は「知恵ある女」と呼ばれるだけあって非常に柔らかな言葉で(箴言15:1)、ダビデのなすべきことを悟らせました。その賢さは、かつてのアビガイルに通じるものがありますし(Ⅰサム25章)、それ以上にダビデ自身の罪を悟らせた預言者ナタンのようでもありました(12:7)。ダビデは、はっきり分かりました。①今のアブシャロムの状況を打開するためには仲介者が必要であり (14:6)、本来自分がその役割を果たすべきなのに、果たしていなかったこと。②そして神様の御心は、追放されたものが、いつまでもそのままでいることではないこと(新共同訳14:14)。そして、その女とヨアブの願いを知った上で、こう結論を下しました。「よろしい。その願いを聞き入れた。行って、若者アブシャロムを連れ戻しなさい。(14:21)」
私たちは人を仲介するものでしょうか?それとも仲たがいさせるものでしょうか?前回こう学びました。「AさんにはBさんの悪口を言い、BさんにはAさんの悪口を言い、共同体を破壊する人がいます。その言葉はまさに『死の毒(ヤコブ3:8)』に満ちています。」時に、私たちも深く考えずに人の悪口を言い、共同体をバラバラにしてしまうことがあります。しかし私たちがするべきことは、むしろ人と人をつなぎ、共同体に和解と一致をもたらすことです。その点ヨアブと彼が遣わした女は、知恵を持って行動しました。◆また今日の箇所の、アブシャロムを求めながら、簡単には受け入れられない父ダビデのジレンマは、私たちを愛しながら、罪あるままでは受け入れらない父なる神様の葛藤と似ています。そんな私たちが、もう一度父に受け入れるために、イエス様は十字架にかかり仲介者(Ⅰテモ2:5)となってくださいました。