『ほうっておきなさい』 Ⅱサムエル16章1−14節

<前回までのあらすじ>
前回はダビデが神の箱をエルサレムに戻す箇所を読みました。それは、神の箱を自分のために利用するのではなく、自分が神様のみこころに従い、身を委ねる信仰の表れでした。彼は、数々の失敗や苦労を重ねる中で、「悩みの炉で練られ」、自分の感情によって性急に行動するのではなく、主の御心を待つ者へと変えられました。

ダビデが神を礼拝する場所であったオリーブ山(15:30.32)から下りて行く途中、メフィボシェテのしもべツィバが迎えにきました(1)。メフィボシェテはサウルの子ヨナタンの息子で、足が不自由でした(4:4)。そのしもべのツィバは非常にたくさんの贈り物を携えてきました。それらはダビデの家族のため、若いしもべたちのため、疲れた者のためと分けられ、とても気の利いたものでした。ダビデは彼に「あなたの主人の息子はどこにいるか」と尋ねました。

ツィバは「(メフィボシェテが)『きょう、イスラエルの家は、私の父の王国を私に返してくれる』と言ってエルサレムにおられる(アブシャロム側についた)」と答えました(3)。19章でダビデがメフィボシェテと再会した際、彼はこれが中傷(デマ)だったと言い訳します。聖書にはどちらが本当のことを言っているのか明確には書いていませんが、メフィボシェテの最期を見ると(21:9)、私個人的にはツィバが本当のことを言っているのではないかと考えます。

今日の箇所は、メフィボシェテといい、シムイといい、サウル一族の残りの者の鬱積した思いを感じます。メフィボシェテは、ヨナタンの子なのに「あなたの主人(サウル)の息子」「私の父(サウル)の王国」と、サウルの子であることが強調されています。彼は死んだ犬のように落ちぶれていたところを (9:8)、ダビデの一方的な憐れみによって、王の食卓でともに食事をする特権に預かりました。それなのに、このクーデターに乗じて、サウル家の復興を夢見て、ダビデを裏切ったのだとしたら何と卑劣な行為なのでしょう。しかしダビデは取り乱さず淡々とこう言いました。「メフィボシェテのものはみな、今あなたのものだ」この静かな言葉に、神様が最終的には正しく裁かれるという、彼の信頼を感じます。

シムイもまた、サウル一族の、残りの者でした。彼は、ダビデとダビデ王のすべての家来たちに向かって石を投げつけ、こう呪いました。「出て行け、出て行け。血まみれの男、よこしまな者。主がサウルの家のすべての血を おまえに報いたのだ。サウルに代わって王となったおまえに。主はおまえの息子アブシャロムの手に 王位を渡した。今、おまえはわざわいに会うのだ。おまえは血まみれの男だから(7-8)」。相手が弱くなった時に、ここぞとばかりに横柄な態度をとり、相手を踏みにじる、これまた非常に卑劣な言動です。

たまりかねたアビシャイは「行って、あの首をはねさせてください(9)」と申し出ます。しかし、ダビデはこういいました。「ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられたのだから。たぶん主は私の心をご覧になり、主はきょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう(11-12)」。シムイの言葉を躍起になって打ち消すでもなく、復讐するわけでもなく、そのまま受け止め(自分の非は認めて反省し)、主の御心を待ち望んでいるのです。そこには、かつてナバルの悪態に激昂し、叩きのめそうとしたダビデの姿はありません(25:1-13)。

あなたは、誹謗中傷される時どのように対処するでしょうか。相手と同じ土俵に立って感情的に打ち消すでしょうか。復讐の策を練るでしょうか。しかし「ほうっておきなさい」と、自分の非は認めながら、主の御心がなることを静かに待ち望むこともできるのです。