『神のことばのようであった』Ⅱサムエル16章15−23節

<前回までのあらすじ>
前々回、ダビデは自分について来ようとする二人の祭司ツァドクとエブヤタル、また彼らの子のアヒマアツとヨナタン、加えて最後に現れたフシャイに対し、エルサレムに帰るよう促しました。それは神の箱を返すという目的の他に、スパイとしてアブシャロム陣営に食い込み、アヒマアツの助言を打ち壊し、敵の情報を得るためでした(15:34-36)。ダビデの本当の脅威は、彼の元議官(カウンセラー)のアヒトフェルでした (15:12)。

フシャイは、ダビデでの部下の一人でありながら、ダビデの友とも呼ばれています(15:37)。アブシャロムがエルサレムに入り、いよいよ体制が整い始めた時、フシャイはアブシャロムのところに行ってこう言いました。「王様、万歳、王様、万歳!」それを聞いたアブシャロムは、最初「なぜ、あなたの友といっしょに行かなかったのか」といぶかしがりましたが、彼は「主と、イスラエルのすべての人々とが選んだ方に私はつき、その方といっしょにいたいのです」と答えました。

こうして、フシャイは、アブシャロムの信用を得ました。このようなやり方が正しいのかどうかはわかりません。嘘か本当かといえば、彼の言葉は明らかな嘘です。アブシャロムと同じやり方で、アブシャロムの心を盗んだのです。こうしてフシャイは、アブシャロムの政策立案にアドヴァイスする、アヒトフェルと並ぶ議官となっていきました。

とはいっても、アブシャロムは、まだまだアヒトフェルの言葉を重んじでいます。クーデターを起こしたものの、どうしたら良いか分からない若いアブシャロムは、老練のアヒトフェルにこう聞きました。「われわれはどうしたらよいか、意見を述べなさい。」それに対しアヒトフェルはこう提案しました。「父上が王宮の留守番に残したそばめたちのところにお入りください。全イスラエルが、 あなたは父上に憎まれるようなことをされたと聞くなら、あなたに、くみする者はみな、勇気を出すでしょう。」

なんとも恐ろしい!わざと、ダビデに憎まれることをしたら、民はあなたの覚悟と度胸を目の当たりにして、勇気付けられるでしょうと言うのです。世の中では、敵対するものを徹底的におとしめ、邪険に扱うことで、自分の力を誇示することもあるのかもしれません。しかし、それは神の民であるイスラエルのやり方ではありませんでした。血は繋がっていなくても、自分の父の妻と寝るものは「必ず殺されなければならない」と律法には書かれています(レビ20:11)。かつて、ヤコブの子ルベンも同じことをして、祝福を失ってしまいました(創49:3-5)。それなのに彼は、屋上に天幕を貼り、わざと全イスラエルに目立つ形で、その助言に従ったのです。

これは、ダビデを何重にも辱める行為でした。当時、前任の王の死後、後任の王がその側女を引き継ぐこともありました。実はダビデもそうでした(12:8)。しかし、それは前任の王が亡くなった時に限り、女性たちの立場を保証するためでした。アブシャロムは、まだダビデが生きているのにそうすることによって、公衆の面前でダビデの「死」を宣告したのです。これはダビデの罪の結果でもありました(12:11)。だからと言って、アブシャロムの罪の責任がなくなるわけではありません。彼は、自分の意思で、神の言葉ではなく、アヒトフェルの助言に聞き従ったのです。

「当時、アヒトフェルの助言は、神のことばのようであった(23要約)」とあります。私たちの周りにも、神のことばのように聞こえる助言があるかもしれません。確信に満ちていて、実際的で、すぐに役に立ち、頼りがいのある…。しかし人は、そうやって偽物に従い、本当の神のことばをないがしろにして、祝福を失っていくのです。