『策士、策に溺れる』 Ⅱサムエル17章1−23節

<前回までのあらすじ>
前回は「アヒトフェルの助言は神のことばのようであった(23要約)」から教えられました。一見こう聞こえるかもしれません。「どんなに説得力のある人の言葉であっても、人の言葉に従うべきではなくて、私たちは聖書(文字の御言葉)のみに聞くべきだ」。しかし気をつけなければなりません。聖書は、説き明かしの奉仕を尊び(1テモ5:17)、励まし(1ペテ4:11)、人を通して語られる御言葉を、ある意味神のことばのように受けとることも大切だと教えています(1テサ2:13)。ですからむしろこう理解すべきです。聖書的ではないこの世の知恵を、あたかも神のことばのように重んじたり、神のことばと同列に置いたりしてはいけない。その結果は悲惨です。今日の箇所を読むとその意味がよくわかります。

続けて、アヒトフェルはアブシャロムに助言しました。それは「アヒトフェルが精鋭1万2千人を選び、アヒトフェルが先頭にたってダビデを追い、アヒトフェルがダビデだけを撃ち殺し、その他の民をすべてアブシャロムのところに連れ帰ってくる」というものでした。当初「このことばはアブシャロムとイスラエルの全長老の気に入」りました(4)。実際、その助言は、後から考えてみても完璧なものでした。◆なぜならダビデは百戦錬磨の武将です。そのことは誰よりもアヒトフェルがよくわかっています。少しでも時間的な猶予を与えれば、すぐに反撃の準備を整えるでしょう。やるなら今しかなかったのです。少数精鋭でもいいからすぐに兵を集めて、経験豊かなアヒトフェル自身が指揮した方が良かったのです。もしこの時、アブシャロムが彼の助言に従っていたら、ダビデの陣営はひとたまりもなかったでしょう。

しかしここでアブシャロムは、フシャイにも助言を求めました。かつてダビデは、アヒトフェルがアブシャロム側についたことを聞いた時、「主よ。どうかアヒトフェルの助言を愚かなものにしてください(15:31)」と祈りました。また最初フシャイが自分についてこようとした時、アブシャロムの所に帰って、彼のしもべになるなら、「あなたは、私のために、アヒトフェルの助言を打ちこわすことになる(15:34)」と言いました。それがこのような形で実現したのです!◆フシャイの助言はこうでした。全イスラエルの軍勢をくまなく集めて、あなた(アブシャロム自身)が戦いに出ることです。そうしてダビデの軍勢を殲滅(せんめつ)せよ。この助言は、アブシャロムの「自尊心」を上手にくすぐりました。そうしてアブシャロムはこう最終判断を下すのです。「フシャイのはかりごとは、アヒトフェルのよりも良い(14)」。

なぜアブシャロムは、フシャイの提案を採用したのでしょうか?きっと若くて実績のない彼に必要だったのは実績と人望だったのでしょう。ですから彼は「自分で成功したかった」のです。彼は主の前に静まって判断するのではなく、耳触りが良い助言に飛びつき、採用しました。その結果は(次回以降見ますが)悲惨です。アヒトフェルは自分の意見が採用されないことを知ると首を吊って死にました。自分の案が聞き入れられなかったからではなくて、フシャイの案では勝てないことを知っていたので、殺される前に自害したのです。◆「策士、策に溺れる」という言葉があります。アブシャロム自身は策士ではありませんでしたが、人の立てた策に飛びつき、それを頼りにし、状況を悪化させました。また自分が成功したいという小さな欲にとらわれ、大きな目的を達成できなかった点においても愚かです。私たちは、人の策略や自分の欲に振り回されずに、つねに主に信頼して歩んでいきたいものです。