<前回までのあらすじ>
前回ヨアブは「私に免じて、若者アブシャロムをゆるやかに扱ってくれ(5)」と願う、ダビデの言葉を無視して、自分の手で王の息子を殺してしまいました(14)。それを知ったダビデは身震いして「わが子アブシャロム。わが子よ。わが子アブシャロム。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。アブシャロム。わが子よ。わが子よ(33)」と悲しみに暮れました。今日はその続きです。
王が喪に服しておられる、との知らせがヨアブに届きました。またその知らせはヨアブだけでなく、ダビデに従った全兵士たちの知るところともなりました。兵士たちは、王が子のために悲しんでいることを聞いて、戦場からこっそり逃げ帰ってきました。その間も王は顔をおおい、大声で「わが子アブシャロム。アブシャロムよ。わが子よ。わが子よ」と叫んでいました。
王が喪に服しておられる、との知らせがヨアブに届きました。またその知らせはヨアブだけでなく、ダビデに従った全兵士たちの知るところともなりました。兵士たちは、王が子のために悲しんでいることを聞いて、戦場からこっそり逃げ帰ってきました。その間も王は顔をおおい、大声で「わが子アブシャロム。アブシャロムよ。わが子よ。わが子よ」と叫んでいました。
そんな王を見て、ヨアブは、きつい言葉でお説教をしました。「あなたは今日、あなたの家来たち全部に恥をかかせました。アブシャロムが生き、我々が死んだのなら、あなたの目にかなったのでしょう。今、立って外に行き、家来たちにねんごろに語ってください。私は主によって誓います。(そうしなければ)だれひとりあなたのそばに、とどまらないでしょう。その災いは、今に至るまでにあなたに降りかかった、どんなわざわいよりもひどいでしょう。(5-7)」それを聞いて王はその忠告に従いました。しかしダビデが語ったという記述はありません。おそらく、みんなの前に姿を見せ座るのが精一杯だったのでしょう。
ヨアブの忠告は、一見もっともらしく聞こえます。全兵士は王のために命をかけて戦ったのに、王はねぎらわず、勝利も喜ばず、息子の死ばかりを嘆いている。これでは彼らが何のために戦ったのか分からないし、まるで悪いことをしたみたいではないですか。そのままでは、ヨアブがいうように、本当に誰もこれ以上ダビデにはついてこなくなってしまうのかもしれません。
でも本当にそうでしょうか?ダビデと兵士たちの絆とはその程度のものでしょうか?イタイは、エルサレムから逃げ出すダビデにこう言いました。「主と王様の前に誓います。王様がおられるところに、生きるためでも、死ぬためでも、しもべも必ずそこにいます。(15:21)」。むしろ彼らは、「息子をゆるやかに扱ってくれ」との王の命令を知っていたのに、守れなかった自分たちを恥じたからではないでしょうか?そもそもヨアブが勝手な行動を取らなければ王の悲しみもなく、他の兵士も恥じる必要はなかったのです。ヨアブは兵全体の気持ちを代弁しているようで、自分の気持ちを王にぶちまけているのです。
ヨアブの暴走が始まっています。彼は王のしもべにすぎないのに、王の命令に従わず、悲しみにも寄り添わず、自分の方が分かっていると言わんばかりにキツイ言葉で王を責め立てています。万が一内容が正しくても、言い方が悪ければ逆効果です。そもそもダビデが自分の息子の死を悼んだからといって、他の部下たちを愛していないわけではありません。父が放蕩息子を愛したからといって、その兄が愛されていないのではないのと同じです。もしかしたらヨアブ自身が、アビシャイやイタイの台頭に焦りを覚え、王からのねぎらいと、愛を必要としていたのではないでしょうか?
私たちも気をつけたいものです。正しいと思うことを主張する時ほど、言い方にも気をつける事ができますように。また他の誰かが愛されている姿を見て、自分が恥をかかされたと思ってしまうことのないように。愛を疑う時、私たちの言葉は刺々しくなり、おかしな態度を取ってしまいます。その結果、本当は愛して欲しいのに、かえってその大切な人を傷つけ、悲しませてしまう事があるからです。