『ヨアブの更迭(こうてつ)』 Ⅱサムエル19章9−15節

<前回までのあらすじ>
前回ヨアブはダビデに、大変厳しい言葉で、お説教しました。それは一見、全兵士の気持ちを代弁した正論のようでしたが、結局、自分の不平不満をぶちまけたにすぎませんでした。彼はそのようにして、ダビデを一方的に責め、子を失った悲しみに寄り添わず、まだ出血している心に、塩をすり込んだのです。

アブシャロムを失って、イスラエルの諸部族(ユダ族を除く11部族)は「ダビデを再び自分たちの王として呼び戻す」議論を始めました。気になる表現があります。彼らは言います。「われわれが油をそそいで王としたアブシャロムは、戦いで死んでしまった。それなのに(ダビデ)王を連れ戻すために、なぜ何もしないでいるのか(10)」。この言葉から透けて見えるのは、彼らの身勝手なご都合主義です。

「油を注ぐ」の主語が「われわれ」なのです。彼らは、自分たちの判断で、王を選んだと思っています。だからその王がダメになれば、また次の王を選べば良いと思っているのです。ダビデはかつて「主に油を注がれたお方」との理由から、サウルに最後の最後まで従い通しました。神様を恐れるがゆえです。そういう姿勢が彼らには全く見られません。そんな彼らに呼び戻されたとしても、ダビデは本当に喜ぶことができたでしょうか? 

そこでダビデは、二人の祭司を通じて、ユダ族の長老たちにこうもちかけました。「あなたがたは、私の兄弟、私の骨肉だ。それなのに、なぜ王を連れ戻すのをためらっているのか(12)」。これは自分の出身部族であるユダ族に、再出発後も主導権をとって欲しいという願いを込めてのことだったでしょう。しかしそれだけでなく、先に触れた通り、ユダ族以外の諸部族に、霊的な問題があったからだとも考えられます。

またもう一つダビデがイスラエルの王として帰還する前にしたことがあります。それは「ヨアブの更迭」でした。ヨアブを将軍の地位から下ろし、代わりに敵軍(アブシャロム軍)の将軍であったアマサを、イスラエル軍の将軍に抜擢したのです。この人事は、一度はアブシャロムにそそのかされ、ダビデを裏切った人々に「王はいつまでも怒っておられない」とのメッセージとなり、ユダ族の心をも捉えました。そして、すべてのユダの人々の心は、ひとりの人のようにダビデになびきました(14)。

それにしても、なぜヨアブは更迭されなければならなかったのでしょうか?彼ほど実績も能力もある人物は他にはいませんでした。それに比べてアマサの実力は未知数で、イスラエル全軍を任せるのは無謀ともいえます。ある人は、ダビデは有能すぎるヨアブを恐れたと言います(3:39)。若い時はそうだったかもしれませんが、今は違うでしょう。ある人はバテシェバ事件の弱みを握られているからといいます。でも言ってみればヨアブも共犯(実行犯)ですから、そうともいえません。ではなぜか?

一つ考えられるのは、やはりアブシャロムの件での責任です。善意からでも、王の命令に平気で背くのは軍人として失格です。また彼には性格上の問題がありました。彼は、とにかく敵と味方をはっきりと分けすぎるのです。そして敵をとことん追い詰め、攻撃し、ついには殺してしまうのです。ダビデが目指すのは「イスラエルの統一と平和」です。それなのに彼は、イスラエルの中で、いつも混乱と対立を生み出してしまうのです。

あなたは大丈夫ですか?自分は正しいとの思いから、相手を責めすぎていませんか?聖書には「あなたは正しすぎてはならない(伝道7:16)」とあります。神の国の平和は妥協の産物ではありませんが、イエス様は敵を責めるのではなく、むしろ赦し、ご自分を犠牲にして「平和」を実現してくださいました。私たちも、神の子として、平和を作るものとなることができますように(マタイ5:9)。