『人口調査』 Ⅱサムエル24章1−25節

<前回までのあらすじ>
 前回は三勇士の話を読みました。今日は第2サムエル記の最後です。

今日はダビデの人口調査に関する罪について、です。その書き出しは難解です。「さて、再び主の怒りがイスラエルに対して燃え上がり、ダビデをそそのかして、彼らに向かわせた。『さあ、イスラエルとユダの人口を数えよ(1)』と」。しかし「再び」とはいつから数えて再びなのか(21章か)、なぜ主が怒られたのかについては記されていないのです。しかも歴代誌第一21章1節には「さて、サタンがイスラエルに向かって立ち上がり、イスラエルの人口を数えるように、ダビデをそそのかした。」ともあります。

どのように理解すれば良いのでしょうか?具体的な「何か」ではなくて、ダビデやイスラエルの不信仰が神様を怒らせたのかもしれません(1)。かつてイスラエルの民が「王」を求めたとき、預言者サムエルはこう警告しました。「役にも立たず、救い出すこともできない虚しいものに従って、わきへそれてはならない(21)。ただ主を恐れ、心を尽くし、誠意を持って主に仕えなさい (24)。Ⅰサム12章」それなのに、彼らはわきへそれようとしていたのかもしれません。そのことに気づかせるため主は、サタンがダビデをそそのかすことを許されたのかもしれません。

人口調査自体の何がいけないのでしょうか?人口調査自体は、聖書に度々登場します(民1:2~,4:2~,26:2~,Ⅱ歴17:13~,25:5~,26:11~)。それ自体が悪いわけではありません。しかしダビデはその結果を聞き、それがおびただしい兵力(9)であることを知って「良心のとがめ(10)」を感じました。彼はこう言いました。「私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました。主よ、今、このしもべの咎を取り去ってください。私は本当に愚かなことをしました。」

考えられる罪はふたつです。一つは、ダビデもイスラエルの民も、自分たちの軍事力を誇り、そこに、本来、主によって与えられるべき平安を見出すようになっていた。つまり軍事力が、彼らの「神」となっていたのです。またもう一つは、ダビデが王として、民や兵力を単なる「数」として見ていたことです。本来、王である自分が民の幸せのために働くべきであるのに、その時のダビデは数を気にして、他の王たちに誇るための道具にしようとしていたのです。このような欺瞞は知らないうちに心に入り込んでくるものです。

預言者ガドは、主の言葉を携えて、三つの裁きからどれか一つを選ぶよう迫りました(11~)。しかし、ダビデはどれも選ばず、こう答えました。「主の手に陥らせてください。主のあわれみは深いからです(14)。」人間的な力に頼っていた罪を悔い改め、主の最善にゆだねる信仰を取り戻したのです。その結果、疫病が国中に広がりましたが、その時ダビデはこう言いました。「この私に罪があるのです。私が悪いことをしたのです。この羊の群れがいったい何をしたでしょうか。どうか、あなたの御手が、私と私の父の家に下りますように(17)。」もはや国民を、単なる「数」としてみるのではなく、その一人一人のことを気にかけ、そのために自分をささげる、本来の王としての姿勢を取り戻しています。

最後にダビデは、主に祭壇を築き、心のからの礼拝といけにえをささげています。この祭壇の築かれた「アラウナの打ち場」こそ、アブラハムがイサクをささげた場所であり、後にソロモンが神殿を立てる場所であり、イエス様が十字架にかかられたゴルゴダでもあります。このイエス様こそ、天の父なる神様に信頼し、その御手に陥り、私たちのために命さえもささげてくださったお方です。今日の箇所から私たちは「数を見るとそこに罠がある。むしろその中の一人一人を気にかけ、愛し、自分自身を捧げるべること」を教えられました。