『アドニヤの謀反』 Ⅰ列王記1章1−10節

<前回までのあらすじ>
 前回はダビデの人口調査の罪について学びました。よく誤解されていますが、最初にダビデが人口調査を行い、それに神様が怒られたのではなく、その前に「主の怒りがイスラエルに燃え上がって」いました(Ⅱサム24:1)。その原因はダビデの問題でもあったのですが、主はその問題に気づかせ、悔い改めに導くために、一連の出来事を導かれたのでした。その問題とは、彼らが主よりも、目に見える人の数や力(軍勢)に頼る罪でした。

今日の箇所は、ダビデの衰えた姿で始まっています。ダビデは老人になり、いくら着ても、体が温まらなくなっていました(1)。そこで家来たちは、アビシャグという若い処女を探して来て、ダビデの身の回りのことをさせました。彼らが「王の懐に寝させて王が温まるようにしましょう(2)」と言っていることから、ダビデがその気になれば性的な関係も結べるような状態だったのでしょう(良し悪しではなく、当時の慣習の一部でした)。しかしダビデは「彼女を知ることが」ありませんでした(4)。これは倫理的なことよりむしろ、ダビデの衰えを強調した表現です。

「いくら着ても温まらなかった(1)」のは、彼の体だけだったのでしょうか。ダビデは、気力と王国建設の情熱においても、冷えていたのではないでしょうか。「衰え」はちょっとずつやってくるので、自分では、なかなか気づかないものです。過去の経験や周りの支えがあるから、まだまだ、今まで通り、今までのやり方でやれるように感じるのです。でも、あらゆる「ほころび」が生まれ、その隙間をぬって、目に見える敵や、目に見えぬ敵が、悪さをし始めます。そして大小の問題に直面して初めて、私たちは自分の衰えに気づくのです。

立ち向かってきたのは息子のアドニヤでした。戦車、騎兵、親衛隊(自分の前を走る50人)を用意していることから、一時の思いつきなどではなく、綿密な計画だったと考えられます。それまでの彼はダビデの子の中でも「良い子」でした。ダビデは彼のことで心を痛めたことはありませんでした(6)。でも、だからと言って、彼が父ダビデを愛していたわけではありませんでした。心の中ではじっと耐えながら「(次は)私が王になる」という野心を抱いていたのです(5)。

アドニヤは非常に体格もよかったとありますが(6)、その描写はアブサロムの事を思い出させます。彼は「アブサロムの次に生まれた子 (6)」でしたが、長男アムノンと三男のアブサロムは既に亡くなっていたので「次は自分だ」という思いが強かったのでしょう(二男キルアブは早々に後継者争いから脱落していたか、亡くなっていたと考えられます)。また兄弟のソロモンだけ宴会に招かなかったことから(10)、彼は特別だと警戒していたのかもしれません。

ヨアブと祭司エブヤタルは、アドニヤを支持しました(7)。アブサロムが謀反を企てた時は、ダビデを支えたのに…今回はダビデを裏切ったのです!でも彼らだけを責められるでしょうか?もとはと言えば、ダビデがこれほど衰えるまで後継者を明確にしなかったから、このような問題が起きたのではないでしょうか?彼らは、彼らなりにこのままでは王国が危ないと心配したのかもしれません。確かに彼らのしたことは「神の選び:油注ぎ」に背く罪でした。しかし神様はこの事を通しても、ダビデが今しなければいけない事を明らかにされているのです。

人はなかなか気づかないし、気づいてもなかなか自分を変えることができません。そんな時、神様は問題によって私たちのお尻に火をつけることがあります。その問題によってようやく本気で「なんとかしなくては」と動き始めるのです。だからと言って罪を犯す者の罪がなくなるわけではありませんが、神様は人の悪巧みを通しても、私たちをあるべき方向へ導いてくださるのです。